2026年3月19日、ヤン・ルカン氏が設立したAMI Labs(Artificial Machine Intelligence Labs)は、10億3,000万ドル(約1,545億円)のシードラウンドを発表した。プレマネー評価額は35億ドル(約5,250億円)で、欧州のスタートアップにおけるシードラウンドの歴史的記録を塗り替えた。シードステージでこの規模の資金を集めた企業は、世界的に見ても極めて稀である。
LLMへの逆張り――JEPAアーキテクチャの賭け
ルカン氏は長年にわたり、現在の大規模言語モデル(LLM)が採用するトークン予測ベースのアプローチに対して公然と批判的な立場を取ってきた。OpenAI、Anthropic、Googleが競い合うトランスフォーマーベースのLLMは、テキストの次のトークンを予測する仕組みに依拠しているが、ルカン氏はこのアプローチでは「真の知能」には到達し得ないと主張する。
AMI Labsが採用するJEPA(Joint Embedding Predictive Architecture)は、トークンを逐次予測するのではなく、世界の「抽象的な表現(abstract representations)」そのものを学習するアーキテクチャである。これは人間が物理世界を理解する方法に近いとされる。人間は文章を一語ずつ予測して世界を理解しているわけではなく、環境全体の構造やダイナミクスを直感的に把握している。JEPAはこの直感的理解をAIに実装しようという試みだ。
経営陣――研究と事業化の融合
AMI Labsの経営陣は、AI研究のトップランナーとビジネス実績のあるオペレーターを組み合わせた布陣である。ルカン氏自身は会長(Chairman)として研究の方向性を統括する。CEOにはAlexandre LeBrun氏が就任した。LeBrun氏はデジタルヘルス企業Nablaの元CEOであり、AI技術の商業化に豊富な経験を持つ。COOのLaurent Solly氏はMeta欧州担当VPとして同社の欧州事業を率いた人物で、大規模な組織運営と事業開発の実績がある。
研究面では、CSO(Chief Science Officer)にSaining Xie氏、CRIO(Chief Responsible Innovation Officer)にPascale Fung氏、VP World ModelsにMichael Rabbat氏が就任した。Xie氏はコンピュータビジョン分野で世界的に知られる研究者であり、Fung氏はAIの責任ある開発における権威である。Rabbat氏はMeta AIでの世界モデル研究をリードしてきた人物だ。
投資家陣営と戦略的意味
投資家にはCathay Innovation、Greycroft、Hiro Capital、HV Capitalといったベンチャーファンドに加え、Bezos Expeditions(ジェフ・ベゾス個人の投資ファンド)、Nvidia、Samsung、Temasek(シンガポール政府系ファンド)が名を連ねる。Nvidiaの出資は特に注目に値する。JEPAアーキテクチャが大規模な計算資源を必要とするため、GPU供給の確保という観点で戦略的意味を持つ。Samsungの参加は、スマートフォンやスマート家電におけるAI統合への意欲を反映している。
ターゲット市場とグローバル展開
AMI Labsが狙う市場は、製造業、航空宇宙、バイオメディカル、製薬、ロボティクス、ヘルスケアの6領域だ。いずれもテキスト処理中心の現行LLMが苦手とする、物理世界の理解が求められる分野である。最初のパートナーとしてデジタルヘルス企業Nablaが発表された。LeBrun CEOの古巣であるNablaとの協業は、医療分野での世界モデルの実証というAMI Labsの技術的野心と事業化の速度を同時に追求する意図を示している。
オフィスはパリ(本社)、ニューヨーク、モントリオール、シンガポールの4拠点で展開する。欧州発でありながらグローバルな研究・事業体制を初日から構築する計画だ。
歴史的な1週間の中核
AMI Labsの調達は、孤立した出来事ではなかった。同じ週にはMind Robotics(5億ドル(約750億円))、Rhoda AI(4.5億ドル(約675億円))、Replit(4億ドル(約600億円))、Legora(5.5億ドル(約825億円))、Sunday(1.65億ドル(約248億円))と、わずか3日間で60億ドル(約9,000億円)超がAI分野に投じられた。フィジカルAI(ロボティクス)とバイブコーディング(AIネイティブ開発)という2つの潮流が、エスケープベロシティ(脱出速度)に達しつつあることを市場が宣言した1週間だった。2023〜2024年のLLM集中投資とは異なり、基盤モデル、アプリケーション層、フィジカルAI、インフラの全レイヤーに資金が分散している点が、AI産業の成熟を物語る。
業界への影響
AMI Labsの登場は、AI研究の方向性に関する根本的な問い――「LLMのスケーリングだけで汎用知能に到達できるか」――に対する具体的な対案を市場に突きつけた。ルカン氏は世界で最も影響力のあるAI研究者の一人であり、その主張が10億ドル(約1,500億円)規模の資金で裏付けられたことは、業界全体の研究投資配分に影響を与え得る。
欧州のAIエコシステムにとっても象徴的だ。Mistral AIがフランスのAI産業を活性化させたのに続き、AMI Labsはさらに大きなスケールで欧州がAI研究の最前線に立てることを証明した。米国勢によるトランスフォーマーベースの競争とは異なるアプローチが欧州から生まれようとしている。
ロボティクス市場への波及も大きい。物理世界を理解する世界モデルが実用化されれば、産業用ロボットの知能レベルは飛躍的に向上し、製造業、物流、農業、建設、さらには医療まで幅広い産業に変革をもたらす可能性がある。60億ドル(約9,000億円)が3日間で投じられたこの歴史的な週は、後年「フィジカルAIのカンブリア爆発が始まった瞬間」として振り返られるかもしれない。
