十週間の報告書が、十分で出てくる

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 十週間の報告書が、十分で出てくる - 章扉

統計の専門家と研究者と専門ライターが何人も集まって、十週間以上かけて一本を仕上げる。臨床試験の結果をまとめた報告書というのは、長いあいだそういう文書だった。分量は数百ページ、数字の一つひとつが規制当局に提出される根拠になるため、書き手は勝手に要約することも省略することもできない。ノボノルディスクの社内では、この書類を年に二、三本書ければ多いほうだった。

それが、十分ほどで初稿として出てくるようになっている。

同社が社内で「NovoScribe」と呼んでいる文書生成の仕組みは、アンソロピックのAI「Claude」をアマゾンのクラウド上で動かし、社内の試験データと、専門家が承認済みの定型表現を組み合わせて草稿を作る。報告書の執筆時間は9割減った。医療機器の検証プロトコルに至っては、必要な人手が95%減ったという。レビューから承認までの往復も半分になった。同社の担当者は「規制の厳しい業界だから、データをそのまま大規模言語モデルに放り込んでうまくいくことを祈る、というわけにはいかない」と語っている。作ったのは十一人のチームだ。

ここまでは「書類の話」である。薬そのものを見つける仕事には、まだ触れていない。

2026年9月16日、ノボノルディスクは同じアンソロピックと、今度はその一歩奥の領域で組むと発表した。使うのは6月末に公開されたばかりの「Claude Science」という道具で、同社の研究開発の現場に持ち込み、特定のワークフローで試す。金額も契約期間も、どちらも公表されていない。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 十週間の報告書が、十分で出てくる - 図表1

世界のインスリンを半分支えてきた会社

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 世界のインスリンを半分支えてきた会社 - 章扉

ノボノルディスクという社名を知らなくても、オゼンピックやウゴービという薬の名前なら聞いたことがある人は多いはずだ。週に一度、細い針のついたペン型の注射器を自分の腹に打つ。それだけで食欲が落ち、体重が一年から一年半で二割前後落ちる。この「痩せる注射」を世界中に広めたのがデンマークのこの会社である。

もともとは糖尿病の会社だ。血糖値を下げるインスリンを作り、世界のインスリン供給のおよそ半分を担ってきた。デンマークという人口六百万人足らずの国の企業でありながら、社員は一時七万八千人を超え、株式時価総額では欧州首位に立ったこともある。デンマークの経済統計そのものが、この一社の輸出で押し上げられてしまうほどの規模になった。

もう一つ、この会社を語るうえで外せないのが所有の仕組みである。ノボノルディスクの議決権の過半は、ノボノルディスク財団が握っている。四半期ごとの株価に振り回されず、数十年単位で研究に金を投じられる構造を、創業の初期に意図して作り込んだ。デンマークの一企業が世界の糖尿病治療の中心に居続けられた理由の一つが、この財団所有にある。

直近の数字を一つだけ挙げると、2026年第2四半期の調整後売上は784億クローネ(約1兆9,000億円)、調整後営業利益は334億クローネ(約8,100億円)だった。会社としては依然として巨大な利益を生んでいる。問題は、その利益が伸びなくなったことである。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 世界のインスリンを半分支えてきた会社 - 図表1

夫婦がトロントから持ち帰った製法から、百年

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 夫婦がトロントから持ち帰った製法から、百年 - 章扉

1920年にノーベル生理学・医学賞を受けたデンマークの生理学者アウグスト・クローと、医師である妻のマリーが、1922年に北米へ渡った。マリー自身が糖尿病を患っていた。二人はトロントで、前年に発見されたばかりのインスリンの話を聞く。アウグスト・クローは北欧でこれを製造する許可を取りつけ、帰国して糖尿病を専門とする医師ハンス・クリスチャン・ハーゲドーンと手を組んだ。資金を出したのは、レオ薬品を所有していた薬剤師アウグスト・コングステッドである。こうして1923年、ノルディスク・インスリン研究所が生まれた。

三年後には、利益を財団に集める仕組みが作られる。稼いだ金を研究に戻し続けるための装置だった。

ところが1925年、ノルディスクで働いていたペーダーセン兄弟が独立し、「ノボ」という別のインスリン会社を立ち上げる。以後六十四年にわたり、デンマークの同じ街で、二つのインスリン会社が競い合うことになった。両者が合併して現在のノボノルディスクになったのは1989年である。しかもこのとき、先に合併したのは事業会社ではなく財団のほうだった。ノルディスク側の財団とノボ側の財団がノボノルディスク財団として一つになり、そのうえで事業が統合されている。

会社の性格を決定的に変えたのは、2010年代に入ってからのGLP-1という一群の薬だ。もともと食事をすると腸から出るホルモンで、インスリンの分泌を促し、胃の動きを遅くし、脳に満腹を伝える。これを注射で長く効くように作り替えたのがリラグルチドであり、その次の世代がセマグルチドだった。糖尿病薬としてのオゼンピックが2017年、肥満症治療薬としてのウゴービが2021年に出る。開発を率いたのがロッテ・ビエア・クヌーセンという研究者で、彼女は2024年にラスカー賞を受けている。この名前は、のちほどもう一度出てくる。

2023年から2024年にかけて、世界中でウゴービが足りなくなった。株価は上がり、欧州の時価総額首位に立った。だがその頂点は長くは続かない。2024年末、次の柱と目された合剤カグリセマの試験結果が市場の期待に届かず株価は急落。2025年は株式の価値が半分以下になり、1984年以来最悪の年となった。同年8月にマイク・ドゥスダー氏がCEOに就き、9月には従業員の約11%にあたる九千人の削減を決めた。年間八十億クローネ(約1,900億円)のコスト削減を2026年末までに達成する計画である。

そして2026年9月、同社は日常の呼称を「ノボ」に切り替えた。法人格はノボノルディスクA/Sのまま、対外的な名前から「ノルディスク」を落とす。同時に「The Novo Way」という社内改革の看板を掲げた。速さと競争力を取り戻す、というのがその趣旨である。今回のアンソロピックとの提携は、この文脈のど真ん中で発表された。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 夫婦がトロントから持ち帰った製法から、百年 - 図表1

AI創薬とは、結局なにを速くするのか

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - AI創薬とは、結局なにを速くするのか - 章扉

薬を一つ作るのに十年以上かかり、費用は数千億円規模になる、という話はよく聞く。ではその十年は、何に費やされているのか。

最初にやるのは「標的を決める」ことだ。ある病気のとき、体の中でどのタンパク質が悪さをしているのかを突き止める。ここを間違えると、あとの工程をどれだけ丁寧にやっても薬にならない。次に、そのタンパク質にぴったりはまって働きを止める(あるいは強める)分子を探す。何万という候補を作っては試し、体内で壊れないか、狙った場所に届くか、別の臓器を傷めないかを確かめていく。動物で試し、人で試す。人での試験は三段階あり、最後の第3相では数千人規模の患者を数年追いかける。

臨床試験に入った候補のうち、承認までたどり着くのは一割前後にすぎない。

AIが効くのは、この長い工程のうち前半である。大量のゲノムデータや遺伝子発現データの中から、病気と結びつくタンパク質を見つけ出す作業。タンパク質の立体構造を予測し、そこにはまる分子を設計する作業。そして先ほどのNovoScribeのように、集まったデータを規制当局向けの文書に組み直す作業。いずれも「読む量」と「試す回数」で決まる仕事で、計算機が得意な領域だ。

逆に、AIが効かないところもはっきりしている。第2相や第3相の期間は短くならない。人の体で効くかどうか、安全かどうかという生物学そのものは、計算では置き換わらない。そしてこれが最も重要な点だが、2026年9月の時点で、AIが見つけたと称される薬で承認されたものは、まだ一つもない。インシリコ・メディシンの肺線維症薬をはじめ、AI由来をうたう候補が第2相まで進んだ例はいくつもあるが、ゴールテープを切ったものはない。リカージョンとエクセンシアという二大プレイヤーが合併したのも、単独では走り切れないという判断だった。

だから「AI創薬」という言葉を聞いたときに問うべきは、「AIが薬を発明したか」ではない。「創薬のどの工程が、どれだけ速く、どれだけ安く回るようになったか」である。今回の提携も、その物差しで見るのが正しい。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - AI創薬とは、結局なにを速くするのか - 図表1

Claude Scienceは新しいモデルではなく「作業台」である

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - Claude Scienceは新しいモデルではなく「作業台」である - 章扉

2026年6月30日、サンフランシスコで開かれたイベントで、アンソロピックはClaude Scienceを公開した。ベータ版で、個人向けの上位プランから法人向けまで、既存の契約者が使える。

ここで肝心なのは、これが新しいAIモデルではないという点だ。動いているのは既存のClaudeそのもので、新しいのはその周りに組み上げられた環境のほうである。同社がプログラマ向けに出して大当たりした「Claude Code」の、科学者版だと考えるとわかりやすい。

何が入っているか。まず、六十を超える科学データベースと計算ツールへの接続がはじめから用意されている。タンパク質の配列を引く、立体構造を取ってくる、化合物の活性データを調べる、公開されている遺伝子発現データを引っ張る。研究者が普段ブラウザのタブを十枚開いてやっている作業が、一つの画面の中でつながる。エヌビディアの生命科学向けツール群とも接続されている。

次に、計算資源の面倒を見る。手元のノートPCで済む処理はそこで、重い処理は研究所の計算機クラスタや、クラウド上のGPUへ。必要ならGPU一枚から数百枚まで自動で広げる。これは地味に見えて大きい。計算生物学者の時間の少なからぬ部分が、計算を「どこで動かすか」の段取りに食われているからだ。

三つ目が出力の形である。タンパク質の立体構造、ゲノムの座標、化学構造式を、そのまま絵として描く。しかも図には必ず、それを生成したコードと、どういう指示のもとで作られたかの履歴がぶら下がる。図を「もう少し軸を対数にして」と言葉で直せば、裏のコードが書き換わる。論文の図が再現できない、という科学界の慢性的な問題への回答になっている。

四つ目が、レビュアーと呼ばれる検算役だ。本体のAIが出した結論に対し、別のAIが引用を当たり直し、計算を検算し、おかしければ差し戻す。研究の現場で人間がやっているピアレビューを、一段階、手前に持ち込んだ形になる。

公開イベントでは、フェニルケトン尿症という希少な遺伝性疾患を題材に、候補分子を自力で挙げてみせるデモが行われた。ハーバード大学の物理学者マシュー・シュワルツ氏は、MIT Technology Reviewに対し、科学プロジェクトを遂行させたときのClaudeの水準を「大学院二年生くらい」と評している。アンソロピックの生命科学責任者エリック・カウデラー=エイブラムス氏は同誌に「これが我々のミッションにとってどれだけ重要かを示している。Claude Codeと同格に置いている」と語った。

競合の構図も押さえておきたい。OpenAIは2026年4月に「GPT-Rosalind」という科学特化モデルを出したが、こちらは米国の審査を通った法人顧客に限定され、アムジェンやモデルナが先行して使っている。グーグル・ディープマインドは、そもそもAlphaFoldやAlphaGenomeという基盤そのものを自社で持っている。これに対してアンソロピックは、モデルの性能で差をつけるのではなく、研究者の作業の流れを丸ごと囲い込む方向に賭けた。TechCrunchはこれを「モデルではなくワークフローに賭けた」と表現している。

そしてもう一つ。この6月30日のイベントで、ダリオ・アモデイ氏の前に登壇して口火を切ったのが、先ほど名前を挙げたロッテ・ビエア・クヌーセン氏だった。GLP-1の開発を率いた当人が、AIの可能性とリスクについて話すところから、この製品の発表会は始まっている。9月の提携は、まったくの初対面からの話ではない。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - Claude Scienceは新しいモデルではなく「作業台」である - 図表1デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - Claude Scienceは新しいモデルではなく「作業台」である - 図表2

今回の提携で、実際に何が動くのか

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 今回の提携で、実際に何が動くのか - 章扉

発表された中身は、言葉としては短い。

ノボの科学者と計算科学チームが「ここが詰まっている」と挙げた具体的な課題を、両社が一緒に潰しにいく。生物学的な推論を支える方向で、特定の科学的課題とワークフローに向けた解を作る。その第一歩として、ノボは自社の研究開発の一部の工程でClaude Scienceを試す。両社の力が合わさって最も効きそうな問題から手をつける、という書き方になっている。

もう一本の柱が、研究とは別の場所にある。ノボはアンソロピックのフロンティアモデルを、社内のソフトウェア開発そのものに使う。プレスリリースはこれを「全社にAIを広げるための鍵となる要素」と位置づけた。製薬会社の中で研究者が使う道具の多くは社内で書かれたソフトウェアで、それを作る速度が上がらなければ、AIを配っても現場では動かない。地味だが、実装としてはこちらのほうが効く可能性がある。

データの扱いと人間による監督についても、明示的に一節が割かれている。ノボの倫理・コンプライアンス基準に沿った形で運用する、という書き方だ。

CEOのマイク・ドゥスダー氏は「アンソロピックと力を合わせることで、当社の研究開発組織は一段と強くなる」「AIは研究開発の生産性を上げ、研究から市販薬までの道のりを圧縮できる」と述べた。アンソロピックの共同創業者でCEOのダリオ・アモデイ氏は「AIの能力が上がることで、一世紀分の生物学・医学の進歩を十年に圧縮できる可能性が生まれる」という、彼が繰り返し使ってきた表現を添えている。

一方で、この契約が何でないかもはっきりしている。特定の疾患や特定の候補化合物について成果報酬を取り決めた、いわゆる創薬提携ではない。業界メディアはこれを「資産単位ではなくプラットフォーム単位の取り決め」と整理している。契約金額も期間も開示されていない。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - 今回の提携で、実際に何が動くのか - 図表1

アンソロピック側の計算——自分で薬を作りはじめた理由

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - アンソロピック側の計算——自分で薬を作りはじめた理由 - 章扉

アンソロピックのこの一年の動きを並べると、なぜノボと組むのかがよく見える。

2025年10月に「Claude for Life Sciences」を出した。ベンチリングという研究記録の定番ソフト、10x Genomicsの単一細胞解析、論文データベースのPubMedなどにClaudeを直接つなぐ仕掛けで、このときの事例として紹介されたのがノボノルディスクの文書業務だった。2026年1月には医療機関・保険者向けの「Claude for Healthcare」。

4月に入って、動きが質的に変わる。ニューヨークのステルス企業コエフィシエント・バイオを、株式で約4億ドル(約628億円)で買収した。社員は十人未満。創業者のサミュエル・スタントン氏とネイサン・フレイ氏は、ロシュ傘下ジェネンテックの計算創薬部門の出身である。同社は、AIが創薬の計画を立て、規制戦略を管理し、候補分子を挙げるところまでを一本につなぐ仕組みを作っていた。アンソロピックにとって初の大型買収がこれだった、という事実が戦略の重心を物語っている。

同じ4月、取締役会にノバルティスのCEOヴァス・ナラシンハン氏が加わった。医師であり科学者であり、三十五を超える新薬・ワクチンの開発と承認を指揮してきた人物である。この選任によって、アンソロピックの長期利益トラスト(Long-Term Benefit Trust)が指名する取締役が取締役会の過半を占めることになった。公益法人という建て付けが、初めて実際の議決構成として発動した瞬間でもある。

6月にClaude Scienceを出し、同じ日に「自分たちでも薬を作る」と宣言した。対象は、商業的に割に合わないために製薬業界が手を出さない希少疾患・顧みられない疾患で、範囲は前臨床までとしている。カウデラー=エイブラムス氏はCNBCに「業界を加速させる正しいモデルと製品と道具を作るには、まず自分たちがそれを生きる必要があるから」と説明した。公益法人なので、商業的な見返りではなく患者の利益でテーマを選べる、というのが同社の言い分である。

8月には、実験装置がAIに向けて自分の仕様を説明するための規格「Model Hardware Standard」を公開した。そして9月、ロイターが、同社がサンフランシスコ・ベイエリアに実験室(ウェットラボ)を静かに立ち上げていたと報じている。カウデラー=エイブラムス氏はロイターに「最後の検証は、当面のあいだ、やはり実際のラボ作業の中にある」と述べ、同時に「我々は薬を市場に出すことを生業にしている製薬・バイオ企業と競争しているわけではない」と念を押した。

この「競争していない」という一文が、今回の提携の隠れた論点である。道具を売る相手が製薬会社で、自分でも薬を作る。顧客と同じ盤に乗るリスクを、アンソロピックは自覚したうえで踏み込んでいる。ノボのような大手にとっては、自社の研究データを預ける相手が将来の競合になりうるかどうか、という判断が必ず入る。今回の契約がプラットフォーム型にとどまり、特定資産の共同開発になっていないのは、その距離の取り方とも読める。

財務面の背景も無視できない。アンソロピックは2026年5月28日、アルティメター、ドラゴニア、グリーンオークス、セコイアが主導するシリーズHで650億ドル(約10.2兆円)を調達し、ポストマネー評価額は9,650億ドル(約151兆円)となった。ブルームバーグは、この評価額がOpenAIを初めて上回ったと報じている。調達時点で年換算売上は470億ドル(約7.4兆円)を超えていた。6月1日にはSECへ株式公開のための書類を非公開で提出しており、ロイターは、上場の立ち上げが10月半ばにずれ込む見通しだと伝えている。

上場を控えた企業にとって、「ノボノルディスクが研究の現場で使っている」という事実は、単なる一契約以上の意味を持つ。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - アンソロピック側の計算——自分で薬を作りはじめた理由 - 図表1デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - アンソロピック側の計算——自分で薬を作りはじめた理由 - 図表2

ノボ側の計算——なぜ半年で三度もAI企業と組んだのか

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - ノボ側の計算——なぜ半年で三度もAI企業と組んだのか - 章扉

ノボがこの半年で結んだAI提携は、今回で三件目になる。

4月14日、OpenAIと全社規模の戦略提携を結んだ。創薬から臨床開発、製造、サプライチェーン、間接部門まで含めた広い契約である。8月10日には、AWSを優先クラウド事業者かつ戦略的AIパートナーに指名し、ロンドンに共同イノベーション拠点を設けた。標的の同定から人に初めて投与するまでの道のりを圧縮する、というのがそこでの目標だった。そして9月16日のアンソロピックである。

外から見ると重複しているようだが、役割は分かれている。AWSが計算と基盤、OpenAIが全社への展開、アンソロピックが研究現場の作業環境とソフトウェア開発。ただし投資家の側から見れば、「まだどれが本命か決まっていない」という読み方もできる。

なぜここまで急ぐのか。答えは特許の期限にある。

セマグルチドの物質特許は、米国では2031年12月に切れる。欧州や日本も概ね同じ時期だ。一方で中国、インド、ブラジル、カナダといった市場では、中核特許が2026年のうちに期限を迎えた。インドでは後発品が、ブランド品の一割前後という価格で出回りはじめている。つまり世界人口の相当部分では、すでにジェネリックのセマグルチド時代が始まっている。

そのうえ、肥満症の市場では米イーライリリーの後塵を拝した。リリーのゼップバウンドは米国の週次処方数でウゴービを抜き、リリーの時価総額は1兆ドル(約160兆円)規模に達する一方、ノボは2,000億ドル(約32兆円)前後にとどまる。2026年の通期見通しは、調整後の売上も営業利益も「横ばいから6%減」というところまで引き上げられたが、それでも減収減益の範囲である。

9月11日、モルガン・スタンレーはノボの投資判断をアンダーウェイトに引き下げた。理由として挙げられたのは、中期の成長見通しの弱さと、セマグルチドの特許切れである。目標株価は250クローネ(約6,100円)。株価は年初来で15%ほど下げ、1月の高値からは三割方低い水準にある。

この状況で、会社が生き延びるために必要なのは新しいパイプラインであり、それを作るのが研究開発組織である。ところが同時に、九千人を削っている。人を減らしながら研究の出力は落とせない、という矛盾を埋める道具として、AIが呼ばれている。これが「supercharge our R&D organisation」というCEOの言葉の、実務的な意味だ。

発表のタイミングも示唆的である。ノボは9月21日にロンドンで資本市場向け説明会を開くことが決まっていた。新しい社名、新しい戦略、新しい財務目標を示す場である。その五日前にAI提携を出した。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - ノボ側の計算——なぜ半年で三度もAI企業と組んだのか - 図表1デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - ノボ側の計算——なぜ半年で三度もAI企業と組んだのか - 図表2デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - ノボ側の計算——なぜ半年で三度もAI企業と組んだのか - 図表3

VC・投資家・各紙はどう見ているか

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - VC・投資家・各紙はどう見ているか - 章扉

市場の反応は、穏やかに肯定的、というところに落ち着いた。発表を受けてノボ株は3.5%程度上昇している。ただし同じ週には、血友病A治療薬フレヘムゴ(デネシミグ)に欧州医薬品庁の専門委員会が承認勧告を出し、さらにデンマークのオービス・メディシンズと最大14億ドル(約2,200億円)の経口薬創出契約を結んだことも発表されている。AI提携の単独寄与を切り出すことはできない。アナリストの投資判断の中央値は依然として「中立」である。

各紙の論調は、製品そのものと、提携とで温度が違う。MIT Technology ReviewはClaude Scienceを「Claude Codeと並ぶアンソロピックの新しい旗艦製品」と位置づけた。STATはむしろアモデイ氏の慎重な一言を引いている。「これは複雑さを解きほぐすのを助ける汎用技術になる。ただ、うまくいくかどうかは確実にはわからない」。TechCrunchは、新モデルではなくワークフローで勝負に出た点を戦略の核心として読んだ。提携そのものの報道は、ほぼ一様に「金額非公開」「まずはテスト」という事実関係の確認にとどまっている。

投資家の視点から、この一件をどう位置づけるべきか。論点は三つある。

第一に、バリューチェーンのどこで価値を取るのかという問題だ。基盤モデル企業が道具を売るだけなら、顧客である製薬会社とは補完関係で済む。しかしアンソロピックは、バイオ企業を買い、実験室を持ち、自社で前臨床プログラムを走らせている。ナラシンハン氏の取締役就任は、製薬側の作法を内部に取り込む動きでもある。生命科学責任者がわざわざ「製薬と競争していない」と明言しなければならないのは、外から見れば境界が曖昧に見えるからだ。ノボにとってこの提携がプラットフォーム利用にとどまり、共同開発資産を伴わないのは、その境界を踏み越えないための設計だと読める。

第二に、AI創薬への資金の流れが選別局面に入っていることである。グーグル系のアイソモーフィック・ラボは21億ドル(約3,300億円)を調達したが、どの疾患のどの薬を作っているかを一切明かしていない。ザイラは累計で10億ドル(約1,570億円)規模、チャイ・ディスカバリーはリリー、ファイザー、ノバルティスと組んだうえでインデックス・ベンチャーズやセコイアから調達した。一方で、医療AI全体へのVC資金は2021年の年間220億ドルという山から半分以下に落ちている。「AIで創薬」という旗だけでは金がつかなくなり、製薬大手と組めているか、臨床で前に進んでいるかが資金の条件になった。今回のノボの動きは、その「組めている側」の裏付けとしてアンソロピックに効く。

第三に、製薬会社のAI提携が株価の物語として消費されやすい、という構造的な問題がある。象徴的なのがスーパーコンピュータ競争で、2025年10月にリリーが、2026年3月にロシュが、その後ブリストル・マイヤーズ スクイブが、それぞれ「製薬会社が保有する世界最強」を名乗った。九か月で三社である。リリーとエヌビディアの共同ラボは五年で最大10億ドル(約1,570億円)という規模だが、これが新薬の本数に効いたかどうかは、まだ誰にも検証できていない。

だからこそ、投資家が追うべき指標は発表の本数ではない。研究開発費あたりで何本の候補が臨床に入ったか、標的の同定から最初のヒト投与までの月数が縮んだか、申請文書の作成リードタイムが短くなったか。この三つである。ノボの場合、三番目についてはすでに数字が出ている。残り二つは、これからだ。

日本の相場感と比べておくと、性格の違いがはっきりする。武田薬品工業は2026年7月2日にインシリコ・メディシンと戦略的共同研究契約を結び、一時金と短期の支払いで約6,000万ドル(約94億円)、開発・商業化のマイルストーンを含めると最大約6億ドル(約940億円)という条件を開示した。特定の標的に対する成果連動型である。ノボとアンソロピックの契約は、それとは別の種類の取り決めだ。金額が出ないのは、成果に対する対価ではなく、道具の利用と共同開発の枠組みだからである。

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - VC・投資家・各紙はどう見ているか - 図表1デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - VC・投資家・各紙はどう見ているか - 図表2

これから何が、いつ計測されるのか

デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - これから何が、いつ計測されるのか - 章扉

直近で外から見える動きは、まず9月21日のロンドンでの資本市場向け説明会だった。「The Novo Way」という新しい戦略の下で、AI提携がどこに位置づけられ、どの目標に紐づけられるのか。ここで研究開発の生産性に関する具体的な数値目標が出るかどうかが、今回の提携の本気度を測る最初の目盛りになる。

秋から年末にかけては、パイプライン側の材料が続く。9月下旬の欧州糖尿病学会では、経口版ウゴービの実臨床データと、次世代のアミリン系候補の進捗が示される。フレヘムゴは2026年第4四半期に欧州の一部国で発売され、2027年初めにEU全域へ広がる予定だ。カグリセマは高用量版が2026年後半に第3相へ入り、大規模試験の結果が出るのは2027年上期になる。アミクレチンから名前を変えたゼナガムタイドも第3相である。これらはいずれもAIが見つけた薬ではない。ノボの次の数年を支えるのは、従来型の創薬で積んできた資産のほうだ。

アンソロピック側で最も大きいのは株式公開である。6月1日に非公開で提出した目論見書が公になれば、生命科学部門がどれだけの売上を上げているのか、外部から初めて数字で見える。ロイターは立ち上げが10月半ばにずれ込むと報じており、エヌビディアが大口の出資者として参加する可能性も取り沙汰されている。上場後は、四半期ごとに「ライフサイエンス事業がどれだけ伸びたか」が問われる立場になる。ノボのような看板顧客の数と深さが、そのまま株価の材料になる。

製品としてのClaude Scienceは、まだベータである。正式版への移行と、それに伴う課金体系の整備が次の節目になる。同社が最大五十件の研究プロジェクトに三万ドル(約470万円)ずつの計算クレジットを配った支援プログラムは、9月から12月までが実施期間にあたる。年明けには、外部の研究者の手でこの道具が何を生んだのかが、論文や発表という形で出てくるはずだ。アンソロピック自身の希少疾患プログラムから最初の候補分子が示されるのも、早ければその頃になる。

では、今回の提携そのものの成果はいつ見えるのか。率直に言えば、時間はかかる。Claude Scienceを使って同定したと言える標的が外に出てくるのは、早くても2027年である。そこから前臨床を経て臨床試験に入るとなれば2028年以降になる。それまでのあいだ、提携の価値を測る手がかりは、研究開発費に対する成果の比率と、規制当局向け文書の作成リードタイムという、地味な二つの数字しかない。

アモデイ氏の言う「一世紀分の進歩を十年に」という表現は、比喩としては強い。しかし現実に起きているのは、十週間かかっていた報告書が十分になり、その次の工程に手が伸びはじめた、という段階の話である。その距離を正確に見積もれるかどうかが、この分野への投資判断を分ける。


デンマークの製薬大手ノボノルディスク、Claude Scienceを用いたAI創薬でアンソロピックと提携 - これから何が、いつ計測されるのか - 図表1