Obsidianとは何か ―― 「第2の脳」を手元のテキストファイルで持つ

第2の脳(Personal Knowledge Management)、Obsidian CEO Steph Ango(ステフ・アンゴ) - Obsidianとは何か ―― 「第2の脳」を手元のテキストファイルで持つ - 章扉

Obsidian(オブシディアン)は、ひとことで言えば「自分の頭の外に置くもう一つの脳」をつくるためのメモ・思考アプリである。日々の読書メモ、会議の議事録、論文の要約、アイデアの断片、日記、レシピ、プロジェクトの計画――そうした雑多な情報をすべて取り込み、相互に結びつけて、必要なときに取り出せるようにする。この発想は「Personal Knowledge Management(PKM、個人知識管理)」あるいは「Second Brain(第2の脳)」と呼ばれ、ここ数年でナレッジワーカーの間に静かなブームを起こしてきた。

具体的な使い方をイメージしてみよう。たとえばある本を読んで「複利は人類最大の発明だ」というメモを書いたとする。Obsidianでは、そのメモの中で [[複利]] と二重角かっこで囲むだけで「複利」という別のノートへのリンクが自動的に張られる。後日、投資に関する別のメモを書いたときに再び [[複利]] と書けば、二つのメモは「複利」というノートを介して自動的につながる。こうしてメモ同士が網の目のように結びつき、画面上には脳のシナプスのような「グラフビュー」が広がっていく。人間の記憶が連想でつながっているように、情報を階層フォルダではなくネットワークとして育てられるのが特徴だ。

このアイデア自体は新しいものではない。1945年にヴァネヴァー・ブッシュが構想した仮想の機械「Memex」、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンが45年間で9万枚の索引カードを相互参照させ70冊以上の著作を生み出した「ツェッテルカステン(Zettelkasten)」、2020年前後に双方向リンクで熱狂的な支持を集めたRoam Research、そして2022年に世界的ベストセラーとなったティアゴ・フォルテの『Building a Second Brain』――Obsidianはこうした「思考のための道具(tools for thought)」の系譜に連なる。あるPKM評論家の言葉を借りれば、「Roam Researchが双方向リンクをカルトに変えたとすれば、Obsidianはそのカルトをオフグリッド(自給自足)へと連れ出した」。

Obsidianが他のサービスと決定的に違うのは、データの持ち方にある。NotionやGoogle Docsがクラウド上の自社サーバーに情報を預かるのに対し、Obsidianはすべてのメモを利用者のパソコンやスマホの中に、ただのMarkdown(マークダウン)テキストファイルとして保存する。Markdownは記号で見出しや箇条書きを表す、人間にも機械にも読めるシンプルな書式だ。つまりObsidianは「閲覧・編集のための窓」にすぎず、本体である文章はあくまで自分の手元のフォルダにある。アンゴCEOが繰り返し説くこの思想は「File over app(アプリよりファイルを)」と呼ばれ、彼のエッセイの言葉では「アプリははかないが、ファイルには生き残る可能性がある(apps are ephemeral, but your files have a chance to last)」と要約される。

この「ローカルファースト」の設計から、いくつもの具体的なメリットが生まれる。第一に、所有とプライバシー。メモは自分の端末にあり、Obsidian社の目には触れない。アナリティクス(行動追跡)も一切搭載されていない。第二に、永続性。たとえObsidianというアプリが将来消えても、プレーンテキストのファイルは残り、他のどんなエディタでも開ける。アンゴは「2060年代や2160年代のコンピュータでも文章を読めるようにしたいなら、その文章は1960年代のコンピュータでも読めるものでなければならない」とまで言う。第三に、拡張性。コア機能はシンプルに保ちつつ、世界中の開発者が作る2,000を超えるコミュニティ・プラグインで、カレンダー、タスク管理、AI連携など好きなだけ機能を足せる。空間的にカードを並べる「Canvas」、メモをデータベースのように一覧・絞り込みできる「Bases」、ウェブ記事を取り込む「Web Clipper」といった機能も、もとはコミュニティのプラグインから生まれ、人気を見て本体に取り込まれてきた。

価格面でも独特だ。Obsidianは個人利用も商用利用も無料で、2025年には企業での業務利用も無償化する「Free for Work」を打ち出した。収益は、複数端末で暗号化同期する「Obsidian Sync」(月額約4〜5ドル=約600〜800円)、メモを一発でウェブ公開する「Obsidian Publish」(月額約8〜10ドル=約1,200〜1,600円)、ベータ版に早期アクセスできる寄付的な「Catalyst」ライセンス(一度きり約25ドル=約3,900円)、そして大企業向けの商用ライセンス(1人あたり年約50ドル=約7,800円)といった、あくまで任意の付加サービスから得る。「無料で囲い込み、データで稼ぐ」という現代SaaSの定石とは正反対の構えだ。競合との立ち位置を大づかみに言えば、チームでの共同編集やオールインワンの業務基盤を求めるならNotion、AIネイティブな新世代を試したいならTanaやMem、そして「自分のデータを自分で握り、20年後も読める形で思考を積み上げたい」個人のパワーユーザーにとっての定番がObsidian、という棲み分けである。

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生い立ちと学歴 ―― 生物学者を志した少年が「デザイン」に出会うまで

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Obsidianを率いるステフ・アンゴ(Steph Ango)は、かつては「Stephan Ango」と名乗っていた。Crunchbaseなどの企業データベースには本名が「Stéphane Angoulvant」と記録されており、名前からはフランス系のルーツがうかがえる。「Ango」はこの姓を短く詰めた職業上の名前だ。彼は自らの顔写真を使わず、抽象的なアバターをアイコンに据え、ソフトウェア、家具、木工、色彩、音楽、料理まで横断する「マルチハイフン(多肩書き)」のクリエイターとして活動してきた。

意外なことに、彼の出発点はデザインではなく生物学だった。本人がポッドキャスト「Dialectic」で語ったところによれば、高校では物理・化学・生物に打ち込み、動物学や進化生物学の道に進むことを夢見ていたという。大学でも生物学を専攻し、各種プロフィールによれば米コロラド・カレッジ(Colorado College)で生態学・進化生物学の学士号を2007年前後に取得したとされる。自然界がいかにして形を選び取ってきたかを観察するこの訓練は、後年の彼の「自然淘汰のように、道具も使われ磨かれて最適化されていく」というデザイン観の土台になった。生物を見るまなざしで人工物を見る――この視点こそが、機能美をそぎ落としたObsidianのミニマルな設計思想につながっている。

進路を決定的に変えたのは、一つの何気ない瞬間だった。2005年ごろ、シンガポールの無印良品(MUJI)の店内で、彼は一本の鉛筆を手に取って雷に打たれたような感覚を覚えたという。「この鉛筆の直径を、誰かが意図して決めたんだ」。世の中のあらゆる人工物の寸法や手触りの背後には、それを設計した人間の判断がある――デザインとは一つの職業であり、生き方なのだと悟った瞬間だった。これを境に彼は生物学者の道を捨て、工業デザインの世界へ飛び込む。本人の弁では、オランダで工業デザインの訓練を受け、現地のデザイン事務所で働いた経験がこの時期にあたる(一部のプロフィールには、米国の名門アートセンター・カレッジ・オブ・デザインで工業・プロダクトデザインを学んだとも記載されている)。

学生時代のアンゴを語るうえで外せない「興味深いエピソード」がもう一つある。それは、彼が10代だった2000年代初頭に熱中した、音楽プレーヤー「Winamp」のスキン(外観テーマ)づくりだ。当時のWinampスキンは限られたピクセル数の中で全ての操作ボタンを表現しなければならず、その厳しい制約こそが創造性を生むことを、彼はこの遊びから体得した。「制約は、その媒体から自然に生まれてくるものだ」というのが彼の持論で、後にObsidianのテーマ「Minimal」や独自カラーパレット「Flexoki」をデザインする感性は、この少年時代のスキン職人の延長線上にある。

さらに特筆すべきは、彼が「アファンタジア(aphantasia)」――頭の中で映像を思い浮かべられない特性――を持つ一方で、極めて優れた聴覚的記憶を備えていることだ。曲を頭の中で丸ごと再生できるのに、絵は見えない。この神経学的な個性が、視覚に頼りすぎない情報設計や、誰にとっても扱いやすい道具づくりへの彼のこだわりを形づくっている。生物学・工業デザイン・自作スキン・特異な認知特性――こうした断片が一人の中で交差している点に、後のObsidianの「シンプルだが奥深い」設計の源泉を見て取ることができる。学業成績そのものの公的な記録は残っていないが、複数の分野を越境しながら独学で技を磨く autodidact(独学者)としての資質が、学生時代から一貫していたことは間違いない。

キャリアと人物像 ―― Inkodye、Lumi、そして「自分が使う道具」へのこだわり

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社会に出たアンゴのキャリアは、Obsidianに辿り着くまでに二つの会社を経ている。いずれも盟友ジェシー・ジュネ(Jesse Genet)との共同創業で、二人の協業はおよそ13年に及んだ。

最初の会社が「Inkodye(インコダイ)」だ。2009〜2010年ごろに始まったこの事業の核は、太陽光に反応して発色する感光性の染料だった。布の上に物を置いて日光に当てるだけで、写真のように像を焼き付けられる。クラウドファンディングのKickstarterで資金を集め、米人気番組『Shark Tank』のシーズン6(2014年放送)にも出演して注目を浴びた。アンゴはここで「ヘッド・オブ・デザイン」を務めている。

二つめが「Lumi(ルミ)」である。本人のサイトの記述によれば、Lumiは2015年にジェシー・ジュネと共同で立ち上げた「ジェシーとの2社目」で、Inkodyeのために自前のサプライチェーンを築こうとした際の苦労――「いかに自社の供給網を作るのが難しいか」という自らの課題(itch)――を掻くために生まれた。事業内容は、ブランドが工場を見つけて協業するためのB2B包装・製造プラットフォームだ。LumiはYコンビネーター(Y Combinator)の2015年冬バッチ(W15)に参加し、2018年にはシリーズAで約900万ドル(約14億円)を調達。そして2021年12月、購入後体験プラットフォームを手がけるNarvarに買収された。買収後、ジェシーはNarvarのパッケージング部門のVPに、アンゴはプロダクト開発担当VPに就いたが、アンゴは2023年1月にNarvarを去る。その翌月、彼はObsidianのCEOに就任することになる。

Lumi時代の経験は、アンゴの仕事観に決定的な刻印を残した。彼は後に「Lumiでは、自分たちが作っているプロダクトを自分たち自身が使っていなかった」と振り返り、これを苦い教訓として語っている。B2Bの供給網ツールは、作り手である自分が日常的に使うものではなかった。この「作り手と使い手の乖離」への反省が、「自分が毎日使う道具しか作らない」という彼のその後の哲学を生む。実際、彼はCEOとなった今でも1日に1〜8時間をObsidianの中で過ごし、エッセイを書き、プロジェクトを練り、プラグインを作る。「もし自分が使っていなかったら、Obsidianという道具はこれほど良いものにはなっていない」と断言する。

人物像としてのアンゴは、典型的なシリコンバレー経営者の対極にいる。彼の口癖は「ただ楽しくモノを作りたいだけ(I just want to have fun building stuff)」。エッセイは原則500語以下に切り詰め、「若き日の自分」に宛てて書き、古い記事を何度も推敲して無駄な接続語を削ぎ落とす。製品を推薦する「Buy Wisely」のリストには、5年以上自分で使い込んだものしか載せない。「創造の種を惜しみなく蒔き、それが育つのを辛抱強く待つ」という長期主義が、彼のあらゆる活動に通底している。CEOでありながら今もObsidianのテーマにCSSの修正を自分でコミットする、根っからの「作り手(toolmaker)」なのだ。同僚や創業者たちが彼に寄せる評価は、まさにこの点に集約される――エンジニア出身の創業者たちが持っていなかった「デザインとプロダクトの審美眼」、そして「製品の本質を一言で言い表す力」を、彼が補完したという見立てである。

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創業物語 ―― 「スーパーファン」がCEOになるまで

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Obsidianという会社の物語は、アンゴの個人史とは別のところから始まっている。創業者は、カナダのウォータールー大学(University of Waterloo)で出会った二人のエンジニア、シダ・リー(Shida Li)とエリカ・シュー(Erica Xu)だ。二人はObsidianの前にアウトライナー(階層メモ)ツール「Dynalist」を共同開発しており、その運営会社Dynalist Inc.が、2020年3月30日にObsidianのベータ版を世に出した。折しもRoam Researchが火を付けた「ネットワーク型思考」の熱気が高まっていた時期で、Obsidianは「クラウドに預けず、自分の手元のファイルでそれをやる」という対案として、コアな知識労働者の心を一気に掴んでいく。

ここからがアンゴの登場だ。彼はObsidianが2020年に登場するや、一介のユーザーとして使い始めた。やがて自分のために作ったテーマ「Minimal」やいくつものプラグインをコミュニティに共有すると、それらが爆発的な人気を博す。デザインとプロダクトのセンスで、エンジニア肌の創業者たちにはなかった価値を持ち込んだのだ。Lumiを売却した後、彼は創業者たちにObsidianへの参画を自ら持ちかけ、まずは業務委託として2022年10月13日にリリースされたバージョン1.0のデザインを手がけた。米テック系ポッドキャスト「Decoder」(The Verge)が「スーパーファンからCEOへ(from superfan to CEO)」と題したのは、まさにこの異例の道のりを指している。

そして2023年2月6日、アンゴはObsidianの公式ブログでCEO就任を発表した。創業者たちはこの交代を後退ではなく前進と位置づけ、「シダとエリカは、自分たちが最も得意とすること――素晴らしいプロダクトを作ること――により多くの時間を使えるようになる」と表明した。アンゴはこのとき、会社の譲れない原則として「無料で使える」「ロックインのない、永続的でオープンなファイル形式」「プライバシー重視・オフラインファースト・エンドツーエンド暗号化」「APIとプラグインによる無限のカスタマイズ性」、そして「Obsidianは100%ユーザーに支えられており、これらの価値観を曲げさせる投資家はいない」という宣言を改めて掲げた。

この組織のあり方そのものが、創業物語の核心でもある。Obsidianの公式サイトは、チームを「9人の小さなチーム」と紹介する――シダ・リー(共同創業者・CTO)、エリカ・シュー(共同創業者・COO)、ステフ・アンゴ(CEO)、エンジニアのリアム・ケイン、ヨハネス・タイナー、マシュー・マイヤーズ、トニー・グロジンガー、カスタマーサクセスのレベッカ・ビショップ、そして「オフィス猫のSandy」までが律儀に並ぶ。会社の指針は5語に凝縮されている。Yours(あなたのもの)、Durable(永続する)、Private(プライベート)、Malleable(柔軟)、Independent(独立)。彼らは会議を「年に一度」しか開かず、日常の意思疎通はDiscordの非同期チャットで済ませる。全員が製品のヘビーユーザーであるため、「何が正しいか」の感覚が自然に揃うからだ。アンゴはこの少人数主義を、映画になぞらえてこう表現する――「僕は『オーシャンズ11』モデルがいちばん好きなんだ」。少数精鋭が、それぞれの専門技能を持ち寄って一つの仕事を鮮やかに成し遂げる。今の世の中なら、小さなチームでも野心的なものを作れる、というわけだ。

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Obsidian対 他のPKM・RAG・OSS ―― ローカルファースト陣営の強みと弱み

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Obsidianの立ち位置を正確に測るには、知識管理ツールの広大な地図の中に置いてみる必要がある。大きく分けて、クラウド型のオールインワン勢、AIネイティブの新興勢、そしてObsidianが属する「ローカルファースト/オープン」陣営の三つだ。

クラウド型の代表が、評価額100億ドル(約1.5兆円)に達したNotionである。チームでの共同編集、データベース、ドキュメント、Wikiを一つに束ねる使い勝手は圧倒的で、月額10〜20ドル(約1,550〜3,100円)の追加で「Notion AI」が文章生成や要約、データベースへの質問応答までこなす。手軽さと協働では群を抜くが、データは自社サーバーに置かれ、利用者は構造的に「借り手」にとどまる。

AIネイティブ勢には、a16z出資のMemや、2025年2月にシリーズAを含む計2,500万ドル(約39億円、シリーズAは評価額1億ドル=約155億円)を調達したTanaがいる。彼らは「AIエージェントが知識を整理してくれる」未来に賭ける。ただしMemは巨額を投じながら苦戦し、一部メディアに「4,000万ドルを燃やした第2の脳の失敗作」と評されるなど、AIネイティブ路線の難しさも露わになった。

そしてObsidianが身を置くオープン/ローカルファースト陣営。ここにはOSS(オープンソース)の同志が多い。アウトライナー型のLogseqは、Stripe創業者パトリック・コリソンやShopify創業者トビアス・リュトケらから約410万ドル(約6億円)のシード資金を集めたOSSプロジェクトだ。暗号化とローカル保存を徹底するAnytype、定番のJoplin、Notion代替を狙うAppFlowyなども、それぞれ「自分のデータを自分で持つ」思想を共有する。Obsidian自身は厳密にはOSSではなく独自ライセンスのプロプライエタリだが、データ形式が完全にオープンなMarkdownである点、そして巨大なプラグイン経済圏を抱える点で、実質的にこの陣営の旗手とみなされている。

ここで、利用者の関心が最も高い「RAG(検索拡張生成)/AI」との関係を整理しておきたい。Obsidianのコア機能には、意図的にAIが一切搭載されていない。AIはすべてコミュニティ・プラグインに委ねられている。たとえば「Smart Connections」は、ノートをベクトル化(埋め込み)して意味的に近いメモを探し出し、Ollama経由のローカルLLM(Llama 3.3やMistralなど)と組み合わせれば、一切データを外部に送らない「エアギャップ(完全閉域)」のRAGチャットを自分のメモ全体に対して実行できる。「Copilot for Obsidian」はvault(保管庫)全体を横断するRAG対話に強く、「Text Generator」は文章生成に向く。つまりObsidianは、AIを「製品の中心」に据えるNotionやTanaとは逆に、「メモの側が、AIに次に何を見せるかを決める」設計思想を採る。プライバシーを一切手放さずにRAGを構築できる稀有な土台なのだ。

長所と短所を総括しよう。Obsidianの強みは、データの完全な所有、徹底したプライバシー(追跡ゼロ)、Markdownゆえの永続性とロックインの不在、無料であること、そして無限のカスタマイズ性に尽きる。一方の弱みも、その裏返しとして明確だ。第一に学習コストとセットアップの手間。プラグインを組み合わせて自分好みに仕立てる自由は、裏を返せば「箱から出してすぐ使える」体験ではない。第二に、リアルタイムの共同編集やチーム運用には本質的に不向きで、ここはNotionの独壇場だ。第三に、AIが標準搭載されていないため、最新のAI体験を求める層には物足りず、プラグイン任せゆえの断片化・品質のばらつきも避けられない。第四に、同期(Sync)やモバイル体験は、クラウド生まれのライバルほどシームレスではない。Obsidianは「万人向けの完成品」ではなく、「自分で育てる余地のある、堅牢な素材」なのだと理解するのが正しい。

シリコンバレーVCの視点 ―― 「投資できない優等生」をどう見るか

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ここからが本稿の核心、シリコンバレーのベンチャーキャピタルがObsidianをどう見ているか、である。結論から言えば、彼らの視線は「賞賛」と「もどかしさ」が入り混じった、極めて複雑なものだ。

まず背景を押さえたい。2020〜2021年、知識管理アプリは空前のVCマネー流入を経験した。Roam Researchは2020年、True VenturesやLux Capitalから900万ドル(約14億円)を、なんと評価額2億ドル(約310億円)――シードの中央値の約25倍――で調達し、米メディアThe Informationに「ノートアプリへの投資家の狂騒」と書かれた。Notionは2021年10月、CoatueとSequoiaの主導で2億7,500万ドル(約430億円)を調達し評価額100億ドル(約1.5兆円)に到達。Memはa16zから560万ドル(約9億円)、続いてOpenAI Startup Fundから評価額1億1,000万ドル(約170億円)で2,350万ドル(約36億円)を集めた。PKMは紛れもなく「ホットな投資テーマ」だったのだ。

その狂騒のただ中で、Obsidianは一銭のVCマネーも受け取らなかった。にもかかわらず、この分野で最も愛され、最も粘り強く生き残ったのがObsidianだという皮肉――ここにVCの複雑な感情の源がある。Obsidianは非公開企業で財務を一切開示していないが、複数のテックメディア(36Kr、BigGo、versaeditsなど)の第三者推計はおおむね一致しており、ARRは約2,500万ドル(約39億円)、月間アクティブユーザーは約150万人、累計ダウンロードは約500万件とされる。社員はわずか9人。単純計算で社員1人あたりの売上は約300万ドル(約4.6億円)に達し、これはVCが巨費を投じたトップクラスのSaaSに匹敵する驚異的な資本効率だ。中国の36Krはこれを「3人のエンジニア、ゼロの資金調達、会議なし――『小さくて美しい』3.5億ドル企業」と評し、BigGoは「ゼロ・ファンディング、ノー・ミーティングのモデルでソフトウェア・スタートアップを再定義した」と報じた(なお、しばしば引用される「評価額3.5億ドル=約540億円」は、ブートストラップ企業ゆえに市場で値付けされた実態のある数字ではなく、あくまで第三者による仮想的な推計値である点に注意が必要だ)。

VCにとって、Obsidianは二重の意味で「教材」である。一つは、彼らが理想とする「資本効率」の極北を、VCマネーなしで体現してしまっている点。もう一つは、にもかかわらず――そして、まさにそれゆえに――投資の対象にできない点だ。アンゴ自身が、なぜVCを拒むのかを明快に語っている。「ほとんどの大手PKMアプリは数百万から数億ドルを調達してきた。だが問題は、それが長期的にインセンティブを歪め、自分たちの原則に反する行動を促してしまうことだ」。投資家が入れば、いずれ成長と回収への圧力がかかり、追跡をやめ、囲い込みを強め、データで稼ぐ誘惑に抗えなくなる――それはObsidianが掲げる「Yours/Private/Independent」の真逆だ、というわけである。Obsidianは社員数を意図的に10〜12人程度に抑え、VCを取らず、ユーザーデータも解析も集めない、という三つの「やらないこと」を原則に据えている。VCの世界の言葉で言えば、Obsidianは投資家とユーザーの利害が衝突しないよう、最初から投資家を方程式から外したのだ。

では、VCはこの「投資できない優等生」の弱点をどう見ているのか。最大の論点はAIである。あるアナリストの整理を借りれば、ブートストラップを貫くObsidianのAI戦略は「プラットフォーム本体に組み込む」のではなく「コミュニティのプラグインに委ねる」賭けにならざるを得ない。これは「必要なものはコミュニティが作る」という思想の一貫性ではあるが、NotionやTanaのようにAIを製品の中核に据え、潤沢な資本で一気に作り込む競合に対し、標準体験で見劣りするリスクをはらむ。AIネイティブ世代がパワーユーザー層を切り崩していくのか、それともプライバシーとデータ所有を武器にObsidianが守り切るのか――ここがVCの最も注目する分水嶺だ。加えて、9人という極小チームゆえのキーパーソン・リスク(とりわけアンゴと二人の創業者への依存)や、あえて小さく留まることによる市場拡大機会の放棄も、成長を是とするVCの目には「もったいない」と映る。

今後、いつ頃どのような新たな動きが観測されるかを、現時点の事実に基づいて展望しておく。プロダクト面では、2025年に導入されデータベース的なビューを実現する目玉機能「Bases」が、2026年に入っても着実に成熟を続けており、デスクトップ版はおおむねv1.13系(2026年半ば時点)まで版を重ねている。業務利用の無償化「Free for Work」、ウェブ記事取り込みの「Web Clipper」と合わせ、個人の道具から「チームでも使える堅牢な基盤」へと裾野を広げる動きが当面の軸になりそうだ。最大の焦点は、やはりAIをどう扱うかである。「コアにAIを入れない」という原則を今後も守り抜くのか、それともローカルで完結するプライバシー重視のAI体験を、一線を越えない形で標準に取り込むのか。この一点に、2026年から2027年にかけてのObsidianの針路と、シリコンバレーVCの評価が集約されていく。確実なのは――Obsidianが近いうちにVCラウンドを発表する見込みは、限りなく低いということだ。彼らにとって資金調達の不在は弱みではなく、製品哲学そのものなのだから。


第2の脳(Personal Knowledge Management)、Obsidian CEO Steph Ango(ステフ・アンゴ) - シリコンバレーVCの視点 ―― 「投資できない優等生」をどう見るか - 図表1