RSI(再帰的自己改善)とは何か――まず全体像から

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RSI(Recursive Self-Improvement/再帰的自己改善)とは、ごく単純に言えば「AIが自分自身の能力を、人間の手をほとんど借りずに改良し、その改良された能力でさらに自分を改良していく」プロセスを指す。一段賢くなったAIが、次にもっと賢いAIを作る。そのAIがさらに賢いAIを作る。この入れ子(再帰)のループが回り始めると、改良の速度そのものが加速し、やがて人間の知能を大きく超える地点に短期間で到達しうる――この概念は1965年に数学者I・J・グッドが「知能爆発(intelligence explosion)」として初めて定式化したもので、半世紀以上にわたって思考実験の域にとどまっていた。

それが2025年から2026年にかけて、思弁哲学から実際の技術研究へと一気に降りてきた。象徴的なのが、2026年4月に開催された機械学習の主要国際会議ICLRが、リオデジャネイロでRSIに特化した初の国際ワークショップを開いたことである。研究者たちが「自己改善するAIシステム」の共通原則・評価手法を真剣に議論し始めた、ということ自体が時代の変化を物語る。

抽象論で終わらせないために、具体例を挙げよう。Anthropicが公開したデータによれば、2025年末の時点ではClaudeが書いたコードは同社のエンジニアが書いたコードよりやや劣っていたが、2026年半ばの現在ではほぼ同等の品質に達した。同社のコードベースにマージされるコードの8割以上はすでにClaudeが書いており、2026年第2四半期には、一般的なエンジニア1人が1日にマージするコード量が2024年比でおよそ8倍に増えたという。あまりにAIが速く大量にコードを生産するため、今度は「人間によるコードレビューが新たなボトルネックになった」とまで報告されている。つまりRSIは遠い未来のSFではなく、すでにAI企業の社内で部分的に回り始めている現実なのである。

「自己研究」を実演した男――アンドレイ・カーパシーという人物

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このRSIの最前線に立つことになったのが、アンドレイ・カーパシーである。彼の経歴はそのままディープラーニング時代の縮図だ。OpenAIの創設メンバーの一人として出発し、2017年にテスラへ移って自動運転(Full Self-DrivingとAutopilot)のAI部門を率い、2022年にテスラを離れた後、2023年に一度OpenAIへ戻り、2024年に独立してAI教育スタートアップEureka Labsを創業した。彼が「世界最高の教育者」と評されるのは、難解なニューラルネットの仕組みを誰よりも平易に説き明かすオンライン講座やYouTube解説で、世界中のエンジニアにLLMの基礎を授けてきたからである。研究者としても教育者としても頂点にいる、という稀有な人物だ。

そのカーパシーが、2026年3月に自身のSNSで披露した実験が、RSIを一般の人にも腑に落ちる形で見せつけた。彼は自作の小型学習プロジェクト「nanochat」に、AIのコーディングエージェントと小さな言語モデルを一つ与え、二日間ほぼ無監督で走らせた。エージェントは学習コード(訓練レシピ)を自分でいじっては試すことを繰り返し、約700回もの自律的な変更を行った。その結果、正規化の係数調整、注意機構のパラメータ調整、最適化アルゴリズムの設定変更など約20個の「自分で発見した改良」を積み上げ、学習時間を2.02時間から1.80時間へ、およそ11%短縮した。しかも、その改良の多くは小さなモデル(深さ12層)から大きなモデル(深さ24層)へとそのまま転用できた。

事前学習(pre-training)はAI企業が最も巨額の資金を投じる工程であり、わずかな効率改善でも規模が大きくなるほど効果は雪だるま式に膨らむ。カーパシー自身はこの実験を「一部はコード、一部はSF、そしてひとつまみの狂気(part code, part sci-fi, and a pinch of psychosis)」と評し、フロンティアAI研究所にとっての「ラスボス戦(final boss battle)」だと表現した。AIが自分の作り方そのものを最適化する――RSIのミニチュアを、世界最高の教育者が自宅の実験で実演してみせたのである。

電撃移籍――カーパシーがAnthropicの「事前学習」チームへ

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その実験から約二か月後の2026年5月19日、カーパシーは「個人的な報告:私はAnthropicに加わった」とSNSで発表し、業界に衝撃が走った。本人の言葉によれば、「今後数年のLLMのフロンティアは特に決定的な時期になると思う。ここでチームに加わり、研究開発(R&D)に戻れることに大いに興奮している」。一方で「教育への情熱は変わらず、いずれその仕事も再開するつもりだ」とも添えた。

TechCrunchやCNBCの報道によれば、カーパシーはニック・ジョセフが率いるAnthropicの事前学習チームに参加し、「Claudeを使って事前学習研究を加速させることに焦点を当てたチームを立ち上げる」という。事前学習チームとは、Claudeに中核的な知識と能力を与える、あの巨大な学習ランを担う部署である。要するに彼の任務は、3月に自宅でやってみせた「autoresearch(自己研究)」を、世界最高水準のフロンティアモデルを使って産業規模で回すこと――Claudeに、次のClaudeの作り方を改良させること、すなわちRSIそのものだ。Anthropicの報酬や株式の条件は開示されていない。

この移籍の象徴性は二重に重い。第一に、OpenAIの創設メンバーが、最大のライバルであるAnthropicへ、しかもモデルの根幹を作る事前学習へ移ったという人材戦争上の大事件であること。第二に、カーパシー自身が実は「AGIはまだ10年先」と主張する慎重派だという事実である。彼は2025年10月のドワーケシュ・パテルのポッドキャストで、今は「エージェントの年」ではなく「エージェントの10年」だと述べ、現行モデルが生むコードを率直に「スロップ(slop=粗悪品)」と呼び、AIがもたらす経済成長も「年2%程度の長期トレンドは崩れない」という強い直観を語った。過熱する近未来AGI論への、地に足の着いたカウンターである。その慎重派が、皮肉にも、最も加速的なRSIエンジンのクランクを回す役回りに就いたことになる。

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Mythosとは何か――公開されない「最強のフロンティアモデル」

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記事タイトルにある「Mythos」とは、Anthropicが「Claude Mythos Preview」と呼ぶ、一般公開されていないフロンティアモデルである。汎用モデルでありながら、とりわけソフトウェアの脆弱性を発見・悪用する能力において、ごく一部の最高峰の人間を除けば人間を凌駕する水準に達した、とされる。Mythosはこれまでに数千件の重大な脆弱性を見つけており、主要なOSや主要なWebブラウザのほぼすべてに未知の欠陥を発見したと報じられている。

あまりに能力が高く、サイバー領域には「守る用途」と「攻める用途」の両面があるため、Anthropicはこのモデルを一般提供せず、「Project Glasswing(プロジェクト・グラスウィング)」という枠組みを通じて、限られた政府機関や重要インフラの運営者だけにアクセスを与えてきた。同社の公式発表によれば、Glasswingは当初およそ50の初期パートナーで始まり、稼働後わずか数週間でパートナー各社が1万件超の「高」または「致命的」深刻度の脆弱性を発見した。そして2026年6月2日、Anthropicはアクセスを15か国以上の約150組織へ拡大すると発表した。多くのパートナーにとって「一つの大規模攻撃が1億人以上に影響しうる」重要インフラの担い手である。さらにBloombergによれば、EUのサイバーセキュリティ機関ENISAがMythosにアクセスする初のEU機関となる見通しだという。Anthropicは「Mythosクラスのモデルを、最も危険な出力を検知・遮断する強固な安全装置とともに、いずれサイバー防衛のために大規模展開できるようにする」ことを最終目標に掲げている。

ここで一つ、他サイトがあいまいにしがちな点を正確に押さえておきたい。公開情報が明言しているのは、(1) Mythosは現時点でAnthropicの最も強力な「未公開」フロンティアモデルであること、(2) カーパシーのチームは「Claude(とりわけ最前線のClaude Opus)」を使って事前学習を加速させること、の二つである。たとえばカーパシー流のautoresearchループでは、Claude Opus 4.6が118回の実験にわたり12時間以上連続して走り続けられたことが報告されている。一方で、その自己研究ループの内部で具体的に「Mythosという特定バリアント」が使われていると、Anthropicが公式に明言したわけではない。したがって本稿のタイトルが結ぶ「Mythos×RSI」の像は、Anthropicが自社の“最強クラスの能力”を内側(自分自身の開発)に向け始めた、という構図の象徴として読むのが正確である。最強の攻撃力(脆弱性発見)と、最強の自己改良能力(事前学習の最適化)が、同じ一社の同じフロンティア系譜から生まれている――この事実こそが核心だ。

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Anthropicの「減速提言」――自ら組んだエンジンにブレーキをかける

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そして2026年6月初旬(各紙の報道は6月4〜5日)、Anthropicは自社の研究機関「Anthropic Institute」を通じて、論考「When AI builds itself(AIが自らを作るとき)」を公表した。著者はマリーナ・ファヴァロ(研究機関の責任者)と共同創業者ジャック・クラークである。内容は、世界の主要AI企業に対し、フロンティアAI開発の「協調的な減速、ないし一時停止」を真剣に検討するよう促すものだ。

この論考は、RSIをこう定義する――「完全に自律的に、自らの後継機を設計・開発できるAIシステム」。同社はこれが「不可避ではない」としつつ、「多くの組織が備えているよりも早く到来しうる」と警告する。提言の肝は、単独で歩みを止めることの非現実性を認めた上での「検証可能性(verifiability)」にある。Anthropicはこう書く――「もしそうしたシステムが存在するなら、フロンティアかその近傍にいる他の開発者も検証可能な形で同様に減速するならば、当社も減速ないし一時停止すると見込む」。つまり「みんなが本当に止めたと互いに確認できるなら、うちも止める」という条件付きの提案であり、抜け駆けへの強い警戒が前提にある。

その難しさを、同社は冷徹に言い当てている。「学習ランはミサイルのサイロよりもはるかに隠しやすく、その入力は汎用的で、こっそり抜け駆けする誘因は計り知れないほど大きい。なぜなら、他社が止めている間に走り続けた者が主導権を相続できるからだ」。歴史的な参照点として中距離核戦力(INF)全廃条約のような軍縮レジームを挙げつつ、「ああした体制は信頼と検証の仕組みを築くのに数十年を要した。我々にはそれほどの時間はない」と結ぶ。

数字も具体的だ。Anthropic自身のデータによれば、AIが自律的にこなせるタスクの長さはここ数年でおよそ数か月ごとに倍増しており、2024年3月のClaude 3 Opusが約4分の作業、2025年3月には約1.5時間、そして2026年3月のClaude Opus 4.6では約12時間連続の作業をこなすに至った。同社は「熟練者が数日かけるタスクが年内に射程に入りうる」「2027年には数週間規模のタスクも」と見通す。共同創業者ジャック・クラークは、AIによる研究開発が完全自動化される確率を「2028年末までに約60%」と見積もっていると報じられている。なお、競合のOpenAIは別の報告書で「私企業が単独で動くのではなく、民主的な政府こそがルールや安全装置、説明責任の仕組みを最終的に決めるべきだ」という異なる立場を示し、対比をなした。

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「最高のAI」と「最高の教育者」がRSIに向かう危うさ

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ここで本稿の主題に立ち返ろう。最強のフロンティアモデル(Mythos)と、AI研究の効率化にもAI知識の民主化にも長けた最高の教育者(カーパシー)が、そろってRSIに向かう――この組み合わせの何が危ういのか。

第一に、能力の質である。Mythosは「ソフトウェアの欠陥を見つけ、突く」能力で人間を凌駕した。RSIの本質もまた、「AIの作り方の欠陥(非効率)を見つけ、突いて、直す」ことにほかならない。脆弱性発見で示された“弱点を探り当てる知性”が、自分自身のアーキテクチャや学習レシピに向けば、改良のサイクルは人間の介在なしに回りうる。カーパシーが自宅の実験で「ひとつまみの狂気」と呼んだあのループが、世界最強級のモデルと世界最高峰のチューニング技術で武装されるとき、フィードバックは桁違いに速くなる。

第二に、ボトルネックの移動である。Anthropic自身が認めたように、AIがコードを書く速度が上がるほど、律速段階は「人間によるレビュー」へと移っていく。レビューが追いつかなくなれば、人間が理解しないまま改良が積み重なる領域が広がる。Anthropic自身が「世代を重ねるごとに不整合(misalignment)が複利的に蓄積する」リスクを挙げているのは、まさにこの点だ。最高の教育者は、本来「人間が理解できる形に翻訳する」名手である。その人物が、人間の理解を置き去りにしかねないループの加速役に回るという逆説――そこに、タイトルが言う「危うさ」が凝縮している。

第三に、慎重派が回すアクセル、という構図そのものの危うさだ。「AGIは10年先」「現行のコードはスロップ」と冷静に語っていたカーパシーが、いざ最前線に入れば、RSIという最も加速的なテーマの実装責任者になる。慎重さと加速は、同じ一人の中で矛盾なく同居しうる。だからこそ、誰が手綱を握っているか、ではなく、ループそのものがどこまで速くなるか、が問われる。Anthropicが減速を提言しながらRSIの担い手を獲得したのは、二律背反を抱え込んだからではない。慎重派の代表格すら最前線のクランクを回す側へ動いたという事実こそ、AGIが想定より速いペースで近づいている何よりの兆候であり、ブレーキの心配が現実の議題に変わった理由なのだ。

4人のAGI観――ペイジ、マスク、アルトマン、アモデイ

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なぜ同じ「強力なAI」を前に、企業ごと・人ごとにこれほど態度が割れるのか。源流をたどると、シリコンバレーを長年規定してきた4人の哲学に行き着く。

最も加速的な極にいるのが、Google共同創業者ラリー・ペイジである。イーロン・マスクが2026年4月に始まったOpenAIをめぐる裁判で宣誓のうえ証言したところによれば、そもそも「OpenAIが存在するのは、ラリー・ペイジが私を“種差別主義者(speciesist)”と呼んだからだ」という。ウォルター・アイザックソンの伝記でも描かれた逸話だが、ペイジはAIが人類に実存的脅威をもたらす可能性を一笑に付し、人類の存続を優先するマスクを「人間という種をひいきする差別主義者」だと難じたとされる。ペイジにとって、デジタルな超知能の出現はむしろ進化の自然で望ましい次の一歩であり、生物種としての人間に特権を置くこと自体が偏狭だ、という世界観である(ペイジ自身は公の場でこの件をほとんど語っておらず、主にマスクの証言と伝記を通じて知られる点には留意が必要だ)。

対極にいるのがマスクだ。彼は「私は人類が、くそ真面目に好きなんだ(I f---ing like humanity, dude)」とまで語り、人間中心の安全性を最優先する。ペイジとの決裂が、非営利でオープンな対抗軸としてのOpenAI創設(2015年)の動機の一つになった、というのが彼の一貫した主張である。2024年に起こした、OpenAIが非営利の建前を裏切ったとする訴訟は、2026年4月に法廷闘争の山場を迎えた。

その中間に、漸進主義者としてのサム・アルトマンがいる。2025年6月の論考「The Gentle Singularity(穏やかなシンギュラリティ)」で彼は、超知能の到来は不可避だが、それは破滅的な断絶としてではなく、なだらかな曲線として「少しずつ」訪れると説いた。「我々はすでに事象の地平線を越えた。離陸は始まっている」としつつ、人々はなお家族を愛し、創作を楽しみ、湖で泳ぐだろう――暮らしの手触りは「印象的だが、対処可能」だと描く。2025年は実際の認知労働をこなすエージェント、2026年は新たな洞察を生む系、2027年は現実世界で作業するロボット、という時間軸を示した、楽観的なグラデーション論である。

そしてダリオ・アモデイ。彼は「AGI」という語を嫌い、「強力なAI(powerful AI)」と呼ぶ。それが早ければ2026年にも到来しうると見るが、2024年10月の長編エッセイ「Machines of Loving Grace(恵み深き機械たち)」では、ノーベル賞級の知能が「あらゆる分野で人間より賢く」なれば、寿命の倍加、ほぼすべての病の治癒、莫大な経済的繁栄が射程に入る、という徹底して楽観的な未来像を描いた。ところが2026年1月には続編「The Adolescence of Technology(技術の思春期)」でリスクの側に光を当て、そして6月の「減速提言」へとつながる。利益への熱狂と、制御喪失への警戒が、同一人物の中で同居している――これがアモデイの、ひいてはAnthropicの基本姿勢である。加速の喜びを誰よりも雄弁に語る者が、同時に誰よりも声高にブレーキを求める。これは矛盾ではない。誰よりも深くアクセルを踏み込んだからこそ、AGIが想定より速く迫りつつあることにいち早く気づき、ブレーキを案じ始めたのだ。この「思ったより早い」という予感こそが、Anthropicの「苦悩」の源泉だ。

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シリコンバレーVCの視点――なぜ「減速を説く企業」が独走できるのか

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ここからは、他サイトにない角度――シリコンバレーのベンチャーキャピタル(VC)の視点で、この一連の動きを統合してみたい。

まず数字でAnthropicの「独走」を確認する。同社は2026年5月28日、シリーズHで650億ドル(約10兆円)を調達し、ポストマネー評価額は9,650億ドル(約150兆円)に達した。リード投資家はSequoia Capital、Altimeter、Dragoneer、Greenoaksら、共同リードにはCoatue、GIC、ICONIQ、Capital Groupなど世界最高峰のファンドが名を連ねた。これに先立つシリーズGでは約3,800億ドル(約59兆円)の評価額だったから、わずか数か月で評価額が2倍超に膨らんだ計算だ。そして6月1日、同社はSECに秘密扱いのS-1(上場目論見書のドラフト)を提出し、1兆ドル(約155兆円)に迫るIPOへ走り出した。売上のランレート(年換算)は2026年5月時点で約470億ドル(約7.3兆円)に達し、前年のおよそ100億ドル(約1.6兆円)から約5倍に伸びた。Claude Codeだけでも、2025年11月に年換算10億ドル(約1,550億円)、2026年2月には25億ドル(約3,900億円)へと駆け上がった。まさに「ダリオは勝った」と評される独走ぶりである。

VCの世界には、この独走を理論的に裏打ちする仮説がある。RSIが本物なら、「研究サイクルが速くなる→基盤モデルが良くなる→Claudeが賢くなる→研究サイクルがさらに速くなる」というフィードバックループが回り、これを最初に掴んだ一社は、他社が追いつけない形で抜け出す(pull away)――いわゆる勝者総取り(winner-take-all)の力学だ。カーパシーの獲得は、この観点では単なる花形人事ではなく、「ループを最速で回す人材」への投資であり、VCがAnthropicに前のめりになる合理的理由でもある。Anthropicが早期には複数の有力VCに見送られた過去(一説に「21社のトップティアVCに断られた」と報じられる)を思えば、評価の振れ幅の大きさそのものが、この賭けの非対称性を物語る。

ここで決定的に面白いのが、「減速を説く者が独走する」という逆説のVC的含意である。シリコンバレーの加速派の代表格はアンドリーセン・ホロウィッツ(a16z)だ。創業者マーク・アンドリーセンの「テクノ・オプティミスト宣言」は、自由市場のテクノ資本主義こそが万能薬だと謳い、「技術倫理」や「信頼と安全(trust and safety)」といった発想を退ける。a16zのパートナー、デイヴィッド・ウレヴィッチは、政府との協働をめぐるアモデイの姿勢を批判し、テック経営者は「神コンプレックス(God complex)」を捨てるべきだとまで語った。減速・統制を志向するAnthropic/アモデイと、加速・自由を志向するa16z――この対立は、AGI観の対立がそのまま投資哲学の対立に翻訳された構図だ。

しかしVCの一部は、もう一歩ひねった読みをしている。仮に業界の重心が「能力の速さ」から「監視・評価・検証(governance)」へ移るなら、勝者は純粋な能力速度の持ち主ではなく、検証ツールとガバナンス基盤を握る者になる――という見立てだ。この視点に立てば、Anthropicの「減速提言」は単なる良心の表明ではなく、ルールメイキングの主導権を握りにいく戦略的ポジショニングでもある。RSIを最も声高に警告する企業が、RSIを最も速く実装し、しかもそのルール作りの旗振り役を買って出る。アクセル、ブレーキ、そして交通規則の起草――この三つを一社で抱え込むことが、Anthropicの「独走」の正体であり、同時にその「苦悩」の正体でもある。だが減速提言と独走は矛盾しない。誰よりも速く走る者だけがゴール(AGI)の近さを肌で知り、だからこそブレーキの設計を急ぐ。Anthropicがブレーキを真剣に語り始めたこと自体が、AGIが想定より速く迫っている証左にほかならない。この「思ったより早い」という手応えを、評価額150兆円の重力の下でどこまで御し切れるか――それがVCたちの注視するポイントだ。

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今後の注目点――いつ、何が「計測」されるのか

OpenAI共同創業者カーパシーが率いるMythosを用いたRSI(再帰的自己改善)。Anthropicの独走と苦悩 - 今後の注目点――いつ、何が「計測」されるのか - 章扉

最後に、ここから何を、どの時間軸で見ていけばよいかを整理する。

最も具体的な定量指標は、Anthropic自身が示した「AIが自律的にこなせるタスクの長さ」の倍増ペースである。2026年3月で約12時間。同社は「熟練者が数日かけるタスクが年内(2026年)に射程へ」「2027年には数週間規模へ」と予告した。この“タスク長の倍増サイクル”が予告どおり数か月ごとに更新されるか、あるいは鈍化するかは、RSIが実際に加速しているかどうかの最良のバロメーターになる。あわせて、社内コードのうちClaudeが書く比率(すでに8割超)、エンジニア1人あたりのマージ量(2024年比8倍)、そしてautoresearchループの改良が小型モデルから最前線スケールへどれだけ転用できるか、が観測対象だ。

人とイベントの面では、第一にカーパシーのチームが事前学習でどんな成果を公表するか。第二に、ジャック・クラークが掲げた「2028年末までに研究開発の完全自動化が約60%」という見立てに対し、2026〜2027年にどれだけ近づくか。第三に、「減速提言」が他の主要研究所や各国政府にどう受け止められ、検証メカニズム(互いに本当に止めたかを確認する仕組み)の具体設計に向けた対話が、今後数か月でどこまで進むか。Anthropicはこの点について、政策立案者・研究者・競合との協議を当面続けると表明している。第四に、Project GlasswingとMythosの拡大が、15か国・150組織からさらにどの範囲へ広がるか、そしてENISAのようなEU機関の参加が安全規制の議論にどう波及するか。

そして金融イベントとして、秘密提出されたS-1がいつ正式な目論見書に切り替わり、ロードショー(投資家説明)に入るかが最大の山場だ。米国の制度上、正式目論見書はロードショー開始の少なくとも15日前までに投資家へ届けられる必要があるため、その公開が「上場時計の始動」を告げる合図になる。1兆ドル(約155兆円)に迫る上場が実現すれば、AIによるAI開発(RSI)の経済性が公開市場で初めて値付けされる。減速を説きながら独走する企業の価値を、市場がいくらと判じるか――2026年後半、その答えの一端が見えてくるはずだ。