写真数枚が、歩き回れる「世界」になる

スマートフォンで撮ったオフィスの写真を、AIに何枚か渡す。しばらくすると画面の中に、窓もドアも机もそろった立体のオフィスが現れ、視点を動かして、その中を自由に歩き回れるようになる。同じ部屋を、古代エジプト風の内装に模様替えすることもできる。
今年1月、米ラスベガスの家電見本市CESで、AMDのリサ・スーCEOが基調講演を行った舞台で実演された光景だ。写っていたのはAMD自身のシリコンバレーのオフィス。実演したのは、この技術を開発した米World Labs(ワールド・ラボ)の共同創業者でCEO、フェイフェイ・リーである。
それから9か月。AMDは、そのWorld Labsを丸ごと買うと決めた。9月28日の発表によれば、買収額は約82億ドル(約1.3兆円)で、支払いは現金ではなく、すべてAMDの株式で行う。規制当局の承認などを経て、年内の完了を見込む。完了後、リーはAMDの執行副社長兼チーフ・サイエンティストに就き、スーCEOの直属となる。
World Labsは2024年に生まれたばかりで、社員はおよそ70人。単純に割ると、1人あたり約1億1,700万ドル(約184億円)の値がついたことになる。AMDにとっては、2022年に完了したザイリンクス買収(約500億ドル、約7.9兆円)に次ぐ、過去2番目の大型買収だ。
リーは、いまのAIブームの出発点となった巨大な画像データベース「ImageNet(イメージネット)」の生みの親で、「AIのゴッドマザー」と呼ばれる研究者である。GPUやCPUを手がける半導体の会社が、なぜ「モデル」の研究所を、これほどの値段で買うのか。鍵は、World Labsが取り組む「世界モデル」にある。

世界モデルとは何か:AIに「世界の手触り」を教える

車庫入れのとき、私たちはバンパーと縁石のすき間が狭まっていく様子を、頭の中で思い描いている。部屋の向こうから放られた鍵を、とっさに空中でつかむ。寝ぼけていても、手元を見ずにマグカップへコーヒーを注げる。リーはこうした能力を「空間知能」と呼ぶ。物の位置や大きさ、動き、そして「こうすればこうなる」という因果を、無意識のうちに予測する力だ。
ChatGPTに代表される大規模言語モデルは、文章の次に来る単語を予測することで賢くなった。だがリーは2025年11月の論考で、いまの言語モデルを「暗闇の中の言葉の達人」と評した。雄弁だが経験がなく、物知りだが地に足がついていない。最先端のモデルでも、距離や向き、大きさの見積もりは当てずっぽうと大差がなく、頭の中で物を回転させることも苦手だという。
世界モデルは、この弱点を埋めるAIだ。コンピューターの中に世界の「写し」をつくり、そこで次に何が起きるかを予測する。言語モデルが次の単語を当てるなら、世界モデルは次の場面を当てる。World Labsに出資する米ベンチャーキャピタルのアンドリーセン・ホロウィッツ(a16z)は、2024年の投資の際、ここでいう「世界」を、コンピューターの中に置かれ、物理法則や因果関係について推論できる、現実あるいは仮想の世界の写しだと説明している。
使い道は大きく三つある。一つ目は、ゲームや映画、建築の現場で、立体の世界そのものをつくる用途だ。World Labsが2025年11月に発売した「Marble(マーブル)」は、文章や写真、動画、大まかな立体の下書きから、歩き回れる3D空間を生成する。できた空間は立体データとして書き出し、ゲームや映像づくりの道具に持ち込める。料金は無料から始まり、最上位のプランでも月95ドル(約1万5,000円)だ。同社は2024年12月の最初の公開実演で、エドワード・ホッパーの名画『ナイトホークス』の中に入り込み、描かれた深夜のダイナーの周りに広がる街並みまで見て回れることを示している。
二つ目は、ロボットの訓練場だ。パイロットが実機に乗る前にフライトシミュレーターで腕を磨くように、ロボットも仮想の世界で練習できれば、実機を壊す心配も、同じ場面を何千回も用意する手間もいらない。World Labsは7月、実際の作業を撮影して仮想空間に再現し、照明や物の置き方、散らかり具合を何千通りにも変えて練習させ、そのまま実機に移す手法を公表した。現実世界での訓練データはゼロのまま、ロボットは1時間、人の手を借りずに作業を続けたという。
三つ目は自動運転だ。米ウェイモは2月、グーグルの世界モデルを土台に、竜巻や、路上に現れたゾウ、ヤシの並木に雪が積もった道路といった、現実ではまず出会えない場面をつくり出し、自動運転車に経験させる仕組みを公表した。

世界モデル競争:グーグル、エヌビディア、そしてルカン

世界モデルの破壊力を市場に見せつけたのは、グーグルだった。傘下のグーグル・ディープマインドは2025年8月、文章で指示するだけで、その中を歩き回れる世界を毎秒24コマで生成し続ける「Genie 3(ジーニー3)」を発表した。2026年1月29日に試作サービス「Project Genie」を米国の有料会員に公開すると、翌日、ゲームエンジン大手ユニティの株価は1日で約4分の1を失い、ロブロックスやテイクツー・インタラクティブも大きく下げた。文章からゲームがつくれるなら、高価な開発ツールはいらなくなる、という連想が走ったためだ。
半導体の王者エヌビディアも、この分野に深く入り込んでいる。2025年1月から世界モデル「Cosmos(コスモス)」を無償で公開し、ロボットや自動運転の開発者に配ってきた。今年5月31日には第3世代の「Cosmos 3」を発表し、画像生成のブラック・フォレスト・ラボや動画生成のランウェイ、ロボットAIのスキルドAIなどと、オープンな世界モデルを育てる連合を立ち上げた。ジェンスン・フアンCEOは「フィジカルAIのビッグバンは、すぐそこまで来ている」と語る。エヌビディアは9月3日、AIモデルの共有サイトとして最大手のハギング・フェイスを約129億ドル(約2兆円)で買収すると発表したばかりでもある。
学界の大物も動いた。メタで12年にわたりAI研究を率いたヤン・ルカンは、2025年11月に同社を離れ、パリでAMI Labsを立ち上げた。2026年3月には、欧州で過去最大のシード資金となる10億3,000万ドル(約1,600億円)を、投資前評価額35億ドル(約5,500億円)で調達している。出資者には、フランスのカタイ・イノベーション、ドイツのHVキャピタル、英国のハイロ・キャピタルといった欧州勢に、ベゾス・エクスペディションズやエヌビディア、サムスン、トヨタ自動車系のトヨタ・ベンチャーズが加わった。
ひと口に世界モデルといっても、つくり方は各社で違う。グーグルのGenieは、夢の続きを見るように、映像を1コマずつその場で描き足していく。ルカンのAMI Labsは、画素の一つひとつまで描くことにこだわらず、世界の「要点」を抽象的に予測する方式を掲げる。これに対してWorld Labsは、小さな半透明の色の粒を無数に並べて空間を表す手法などを使い、形のはっきりした立体データを出力する。取り出して編集でき、ほかの道具に持ち込めるのが強みだ。
新興企業への資金も膨らんでいる。世界モデルを開発するオデッセイは6月、3億1,000万ドル(約490億円)を調達し、評価額は14億5,000万ドル(約2,300億円)に達した。この調達には、アマゾンやグーグル系のGVとともに、AMDの投資部門AMDベンチャーズも加わっている。AMDは、World Labsだけに目をつけていたわけではない。


World Labsの歩み:創業2年半あまりで82億ドル

World Labsの誕生には、一人の投資家が深く関わっている。a16zのパートナー、マーティン・カサドだ。カサドは今回の発表の日、Xにこう書いた。3年近く前、a16zに対し、会社の外で時間の一部を使い、フェイフェイがフロンティアモデルの会社を立ち上げるのを手伝いたいと申し出た、と。
World Labsは2024年の初めに生まれた。共同創業者は3人。リーのスタンフォード大学での教え子で、画像とAIの研究者ジャスティン・ジョンソン。写真から立体の風景を再現する技術「NeRF(ナーフ)」の生みの親の一人で、グーグルの研究部門にいたベン・ミルデンホール。メタの研究部門などで3D描画の技術を磨いたクリストフ・ラスナーである。視覚、立体、グラフィックスの第一人者がそろった。
評価額は、創業から数か月で10億ドル(約1,570億円)を超えたと報じられた。2024年9月に表舞台に出た時点で、a16z、米ニュー・エンタープライズ・アソシエイツ(NEA)、カナダのラディカル・ベンチャーズを中心に、計2億3,000万ドル(約360億円)を集めていた。個人では「AIのゴッドファーザー」と呼ばれるジェフリー・ヒントン、グーグルのジェフ・ディーン、元グーグルCEOのエリック・シュミット、セールスフォースのマーク・ベニオフらが名を連ね、エヌビディアの投資部門も出資した。
同じ年の12月には、1枚の画像から、ブラウザー上で歩き回れる3Dの場面を生成する技術を公開する。2025年10月には、操作に合わせて映像をその場で生成し続けるモデルを発表し、エヌビディアのGPU1枚で動くことを示した。そして11月、初の製品Marbleを発売した。
2026年に入ると、AMDとの距離が一気に縮まる。1月のCESの舞台で、リーは、自社のモデルが1週間足らずでAMDのGPU上で動くようになり、数週間の調整で性能が4倍以上に高まったと語った。同じ月には、開発者が自社のサービスに組み込めるAPIの提供も始めている。
2月には10億ドル(約1,570億円)を調達した。既存株主のa16zに加え、3D設計ソフト大手の米オートデスクが2億ドル(約310億円)を投じ、AMD、エヌビディア、米フィデリティ、エマーソン・コレクティブ、シンガポールのシーも加わった。評価額は公表されていないが、ブルームバーグなどは約50億ドル(約7,900億円)と報じている。
6月には、共同創業者のラスナーが役職を離れ、助言役に回った。7月にはロボット向けシミュレーション技術のSceniX(シーニックス)を買収する。創業者は米コロンビア大学のユンジュ・リー、チャンシー・ジェンの両教授で、ユンジュ・リーはかつてフェイフェイ・リーの研究室で博士研究員を務めた人物だ。
そして9月1日、集大成ともいえる新モデル「Atlas(アトラス)」を発表する。リーの説明では、言語モデルが文章の次の単語を予測するように、Atlasは手元の写真から、別の角度からの見え方を予測する。写真2、3枚から現実の空間を立体で再現し、最長1分の高精細な映像も生成できる。いまは選ばれた提携先に限って先行提供している。その発表から4週間足らずで、会社はAMDに売られることになった。
これほど注目を集めた会社が、看板モデルを出した直後に、なぜ独立の道を手放したのか。発表文には前向きな言葉が並ぶが、その裏には、世界モデルという技術がいま突き当たっている壁と、その壁を一社で越え続けるには足りない体力という、二つの行き詰まりがあった。
壁の正体は、「見た目」と「物理」の間の溝だ。World Labsのモデルが再現するのは、空間の形と見た目である。集大成のAtlasでさえ、予測するのは別の角度からの「見え方」だ。Marbleがつくる世界には、重さや硬さ、摩擦といった性質が含まれておらず、机の上のコップを倒したければ、データをゲームエンジンなどに書き出し、物理の設定を人の手で加えるしかない。操作に応じて場面が動くグーグルのGenieも、大量の映像から覚えた「それらしい動き」を描いているだけで、物理を計算しているわけではない。発表時点で、世界のつじつまを保てるのは数分間だった。
世界モデルは、すでに背景づくりや訓練の現場で使える成果を出しており、机上の空論ではない。だが、言語モデルが切り開いた言葉の世界の先で、いま手が届いているのは見た目の世界までだ。重さや力が働く物理の世界とは、まだつながっていない。a16zが出資の際に掲げた、物理法則や因果関係まで推論できる世界の写しは、なお遠い。その隔たりが最もはっきり表れるのが、ゲームエンジンとの比較と、ロボットの訓練場だ。
米エピックゲームズの「Unreal Engine(アンリアル・エンジン)」や、ユニティの「Unity」といったゲームエンジンは、見た目こそ人の手で一つずつ作り込む必要があるが、重力や衝突を方程式で計算する物理演算を備え、遊びの仕組みもそこで組み立てる。1月に市場が恐れたのは、世界モデルがこうしたエンジンを不要にする未来だった。だが、ユニティ株を押し下げたのはグーグルのGenieで、World Labsはむしろ、つくった世界を書き出してエンジンに持ち込んでもらう道を選んだ。エンジンを置き換えるのではなく、エンジンに素材を納める側に回ったわけだ。2億ドルを投じたオートデスクの狙いも、世界モデルを既存の3D制作の作業に組み込むことにある。現場にとってMarbleは、背景づくりの手間を減らす便利な道具ではあっても、エンジンの代わりにはならない。料金は最上位のプランでも月95ドル。素材づくりの道具の稼ぎで、1兆円を超える値札を支えるのは難しい。
二つ目の使い道であるロボットの訓練場では、この溝がさらに重くのしかかる。ロボットの手が物をつかめるかどうかは、形や見た目だけでは決まらず、重さや滑りやすさに左右されるからだ。7月のSceniX買収は、生成した世界と現実のロボットをつなぐための一手だった。だがこの分野では、エヌビディアがCosmosを無償で配り、開発者を自陣に集めている。ただで手に入る道具と張り合いながら、新興企業が有料で売り込むのは分が悪い。市場そのものもまだ育ちきっておらず、フアンの言う「ビッグバン」は、いまも「すぐそこ」にとどまる。世界モデルの旗振り役であるルカンでさえ、商用化までに何年もかかると公言している。
もう一つの行き詰まりは、体力だ。世界モデルは映像や立体を大量に学習させるため、膨大な計算資源を食う。グーグルは自前のAI半導体と巨大なデータセンターを持ち、エヌビディアはGPUを売る側にいる。これに対し、World Labsがこれまでに明らかにした調達額は、2024年までの2億3,000万ドルと今年2月の10億ドルを合わせて12億3,000万ドル(約1,930億円)。巨人と同じ土俵で学習を回し続けるには心もとない。次に資金を集めるなら、2月の約50億ドルを上回る評価額を正当化する材料が要るが、Atlasもまだ提携先への先行提供の段階にある。看板モデルは出したものの、稼ぐ力を示すところまでは届いていなかった。
AMDの傘下に入れば、この二つの行き詰まりに同時に手が打てる。学習にはAMDの設備を使え、ロボットや工場の機械に組み込む半導体という、物理の世界への出口も手に入る。売上の裏付けを示せていないことは、単独の新興企業には重い弱みだが、売上ではなく人材とモデルの知見を求めるAMDにとっては問題にならない。売り先がAMDだったことにも理由がある。グーグルにはGenie、エヌビディアにはCosmosという自前の世界モデルがあるが、最先端のモデルで顧客と競わないAMDなら、World Labsのチームはまとまったまま、社内のモデル開発の主役になれる。自社のモデルがAMDのGPUで十分に動くことも、1月のCESの時点で確かめていた。株主にとっても、2月の評価額を6割強上回る値で、時価総額1兆ドル規模の会社の株に換えられる。看板モデルを出した直後は、会社の物語が最も輝いて見える時期でもある。注目企業の身売りは、敗北というより、行き詰まりが数字に表れる前に打った先手だった。



フェイフェイ・リー(1)成都から、ニュージャージーのクリーニング店へ

リーは1976年に北京で生まれ、四川省の成都で育った。母は教師、父は化学工場でコンピューター関係の仕事をしていた。自伝によれば、父は娘の成績にはほとんど関心を示さず、代わりに田んぼや山へ連れ出しては、蝶や虫を一緒に探した。「見る」ことへの好奇心は、この父から受け継いだものだ。
12歳のとき、父が先に米国へ渡った。リーは15歳で母とともに後を追い、ニュージャージー州パーシッパニーで暮らし始める。英語はほとんど話せなかった。父はカメラの修理、母はスーパーのレジ打ちで生計を立て、リー自身も中華料理店で働いた。
転機をくれたのは、地元の高校の数学教師ボブ・サベラだった。サベラは昼休みを割いてリーに数学を教え、家族ぐるみで一家を支えた。一家がクリーニング店を開く資金の一部も、サベラ夫妻が貸したと伝えられる。リーはのちに、見知らぬ人ばかりの世界を漂っていた15歳の移民の少女に「優しさの光を当ててくれた」と、サベラ一家への感謝を記している。
高校を卒業すると、プリンストン大学に進み、物理学を専攻した。英語を話せるのは家族で彼女だけだったため、クリーニング店の実質的な店長も務めた。毎週末、金曜から日曜まで大学から戻ってはレジに立ち、客の相手をし、請求書を処理する。この生活は7年間続き、大学院に進んでからも半ばまで、遠隔で店を切り盛りした。母の体調も思わしくなかった。
1999年の卒業時には、好景気のなか、投資銀行やコンサルティング会社からの誘いもあった。だがリーは、チベットの伝統医学を研究するための奨学金を得て、現地へ向かう。その後カリフォルニア工科大学の大学院に進み、脳の視覚の仕組みとコンピューターによる画像認識の両面から、「見る」ことの謎に取り組んだ。2005年に電気工学の博士号を取得する。在学中に仲間とつくった画像データセット「Caltech 101」は、101種類の物を集めたものだった。のちのImageNetは、これを2万種類以上へと広げることになる。

フェイフェイ・リー(2)ImageNetと「AIのゴッドマザー」

2005年にイリノイ大学で教員となり、2007年にプリンストン大学へ移ると、リーは無謀とも思える計画に乗り出す。英語のあらゆる名詞について、それを写した写真を集め、正しい名前を付ける。世界をまるごと、写真で目録にしようという構想だった。
問題は手間だった。学生を時給で雇って手作業で進めていたら、とても終わらない。行き詰まっていたリーに、ある大学院生が、ネット上で小さな作業を大勢に頼めるアマゾンの「メカニカル・ターク」を見せた。リーは「文字どおりその日に、ImageNetは実現すると確信した」と振り返っている。最終的に167か国、約5万人の作業者が写真の選別と名付けを手伝い、約1,500万枚、2万2,000種類を超える巨大なデータベースができあがった。
2009年の学会では、口頭発表ではなくポスター展示の扱いで、反応は冷ややかだった。物を一つ見分けることもできないのに、なぜ何千種類も、というのが大方の見方だった。リーはスタンフォード大学に移った翌年の2010年から、ImageNetを使って画像認識の精度を競うコンテストを毎年開く。
2012年、状況は一変する。トロント大学のジェフリー・ヒントンの研究室が出したニューラルネットワーク「AlexNet(アレックスネット)」が、2位に10ポイント以上の大差をつけて優勝したのだ。家に生まれたばかりの赤ん坊がいたリーは、結果が発表されるイタリア・フィレンツェの学会を欠席するつもりだったが、結果を見て考えを改め、20時間の長旅に出た。AlexNetはエヌビディアのゲーム用GPU2枚で学習していた。ここから「大量のデータとGPU」がAIの常識になり、エヌビディアがAIの王者となる道も開けた。
その後リーは、スタンフォード大学のAI研究所の所長を2013年から2018年まで務め、研究休暇中の2017年から2018年にかけては、グーグル・クラウドでAIのチーフ・サイエンティストとなる。米国防総省の無人機映像の解析計画「プロジェクト・メイブン」をめぐる社内メールが報じられ、批判を浴びたのもこの時期だ。大学に戻ると、2019年にスタンフォード大学の「人間中心のAI研究所(HAI)」を共同で立ち上げ、共同所長に就いた。AI分野の多様性を広げる非営利団体「AI4ALL」の創設にも関わっている。
評価は国境を越える。2025年には、ヒントンやルカン、エヌビディアのフアンらとともに、エリザベス女王工学賞に選ばれた。受賞者7人のうち、女性は彼女だけだった。同じ年の12月、米タイム誌が「今年の人」に「AIの設計者たち」を選び、鉄骨の梁に8人の大物が腰かける表紙を描いたとき、その中にはリーと、AMDのリサ・スーの姿があった。カリフォルニア州知事の依頼で、最先端AIの規制のあり方をまとめる作業部会を、共同で率いたこともある。
「ゴッドマザー」という呼び名について、リーは当初、自分からそう名乗ることはないと距離を置いていた。だがいまは、「一緒に働く若い女性たちと、これからの世代の少女たちのために、この呼び名を受け入れる」と語っている。

なぜAMDは「モデル」を買うのか

AMDは、パソコンやサーバー向けのCPU、そしてAI向けのGPUを設計する会社だ。株価は年初から3倍近くに上がり、9月21日には時価総額が初めて1兆ドル(約157兆円)を超えた。4〜6月期の売上高は前年同期比50%増の115億ドル(約1.8兆円)で、データセンター部門は2倍以上に伸びた。OpenAIやメタ、アンソロピック、オラクルなどが導入するAI用のサーバーラック「Helios(ヘリオス)」も、この秋に出荷が始まり、2027年にかけて本格化する。
それでもAMDには悩みがある。チップの設計は、完成の何年も前に仕様を決めなければならない。数年後にどんなAIが主役になり、どんな計算が求められるのかを読み違えれば、巨額の開発費が無駄になる。スーCEOは発表文で「次世代のAIの計算基盤をつくるには、モデルがどう進化しているかを深く理解する必要がある」と述べ、ブルームバーグのインタビューでは「端から端まで理解するほど、良いシステムがつくれる」と語った。
ただ、AMDの大口顧客は、OpenAIやメタ、アンソロピックといった、最先端の言語モデルをつくる会社そのものだ。自前で言語モデルに乗り出せば、顧客と競合してしまう。調査会社ムーア・インサイツ・アンド・ストラテジーのパトリック・ムーアヘッドがXで伝えたところでは、AMDでAIを統括するバムシ・ボッパナ上級副社長は、最先端で顧客と競うことは「まったく意図していない」と説明した。World Labsのチームは、マルチモーダルAIやロボット、組み込み機器、映像コンテンツにまたがる「全社横断のモデル開発力」となり、さらに人材を呼び込む「核」になるという。学習は主にAMDの設備で行い、完成したモデルは他社の半導体でも動かせるようにする。ブルームバーグによれば、チームは新設するAIモデル部門の中核となる。
世界モデルは、この条件にぴたりとはまる。主戦場が言語モデルの顧客たちとは少しずれており、しかも映像や立体、物理シミュレーションを大量に扱うため、計算機に求めるものも言語モデルとは違う。さらにAMDは、データセンター用のGPUだけでなく、ロボットや工場の機械に組み込む半導体も手がける。2022年に買収したザイリンクスの製品は産業用ロボットで使われ、2026年にはロボット向けの新しい組み込みプロセッサーも投入した。仮想の世界でロボットを鍛えるのはデータセンターのGPU、鍛えたロボットの頭脳として動くのは組み込みチップ。その両方を一社で押さえる絵が描ける。
リー自身の言葉も、この構図を裏付ける。リーは買収発表の日に公開した文章で、「宇宙は言葉でできているのではない。実在する物でできている」と書き、「ハードウェアに集中した取り組みがなければ、AIは効率でも規模でも足かせをはめられ、デジタルの世界に閉じ込められたままになる」と、半導体の会社に加わる理由を説明した。見た目の世界に閉じ込められ、単独では物理の世界へ踏み出せなかったWorld Labsが、その出口を半導体の側に求めたことになる。スーについては、初期からの出資者であり、使命を信じてくれた人であり、「素晴らしい友人」だと記している。台湾に生まれ、幼くして米国に渡ったスーと、15歳で中国から渡ったリー。移民の技術者二人が、同じ船に乗る。
AMDはこれまでも、2024年にフィンランドのAI研究所サイロAIを6億6,500万ドル(約1,040億円)で、2025年にはサーバー設計のZTシステムズを買収し、チップからラック、ソフトウェアへと守備範囲を広げてきた。World Labsの買収で、その先端にモデルが加わる。

投資家から見た82億ドル:2年で8倍前後、7か月で6割増

投資家の側から見ると、今回の買収は、世界モデルという新しい分野で最初の大きな「出口」となった。
2024年に「10億ドル超」と評価された会社が、2年後に82億ドルで売れた。単純に比べれば8倍前後だ。2月の調達時に報じられた約50億ドルと比べても、わずか7か月で6割強の上昇になる。社員1人あたり1億ドルを超える値付けだが、売上高は公表されていない。ムーアヘッドは今回の買収を、売上を買うのではなく「人材とモデルの知見を買う取引だ」と評した。
注目すべきは、買い方そのものだ。ここ2年、巨大テック企業は、有望なAIスタートアップを会社ごと買わず、技術のライセンス料を払ったうえで、創業者や主要な研究者だけを迎え入れる取引を重ねてきた。グーグルは2025年7月、AIコーディングのウィンドサーフの技術に24億ドル(約3,800億円)を払い、最高経営責任者らを迎え入れた。エヌビディアも同年12月、AI半導体のグロックと同じ形の大型契約を結んでいる。こうした取引には、合併審査を避ける抜け道ではないかとの批判があり、9月には米司法省がエヌビディアとグロックの契約を調べていると報じられた。
AMDは会社を丸ごと買い、当局の審査も正面から受ける道を選んだ。技術と人材だけを抜き取り、抜け殻の会社を残す形ではない。株主は対価としてAMD株を受け取る。VCにとっては、最もすっきりとした出口の形だ。
a16zのカサドは発表の日、創業の席に座り、最初のコードが書き込まれるのを見届け、荒削りな初期の結果に大きな何かの兆しを見たと振り返り、この経験を自身のキャリアで最も驚くべき瞬間の一つと呼んだ。カサドは、2024年の出資の際に、世界モデルは言語モデルに匹敵する転換になりうるとする投資メモを書いた一人でもある。ラディカル・ベンチャーズの共同創業者ジョーダン・ジェイコブスも、Atlasの発表に合わせて、その仕組みを解説する文章を自社サイトに載せていた。
戦略投資家の思惑はそれぞれだ。オートデスクのアンドリュー・アナグノストCEOは、2月の出資の際、規模だけに頼るのではなく、人間のニーズと専門知識に導かれて、物理世界の設計、建設、運用の最も難しい問題を解く道への投資だと語り、研究やモデルの段階から協業する助言役の立場を得た。AMDベンチャーズは3月、自社サイトで「World Labsに一段と賭ける」と宣言していた。その半年後、AMDは会社ごと手に入れた。


株で払うという選択と、エヌビディアの皮肉

82億ドルは、すべてAMDの新株で支払われる。証券当局への届け出によれば、合併契約は9月26日に結ばれた。金額は82億ドルで固定し、渡す株数は、完了日の2営業日前までの10営業日の平均株価で割って決める。株価が下がれば株数が増え、上がれば減る。売り手のWorld Labs株主は、完了までのAMD株の上げ下げから守られる仕組みだ。新株は公募ではなく、World Labsの株主に直接割り当てる。
発表当日の終値で計算すると、必要な株数は約1,350万株。AMDの発行済み株式は約16億3,000万株なので、既存株主にとっての希薄化は1%に満たない。
AMDの手元には、6月末時点で131億ドル(約2兆円)の現金と短期投資があった。現金でも払えたはずだが、株を選んだ。ここ1年のAMDは、自社株を「通貨」のように使ってきた。2025年10月にOpenAIへ、2026年2月にはメタへ、それぞれ最大1億6,000万株を1株わずか0.01ドル(約1.6円)で取得できる権利を渡している。GPUの購入量とAMDの株価の節目に応じて、段階的に権利が確定する仕組みで、大口顧客に株主としての利害を持たせる。株価が年初の3倍近くになったいま、自社株は、有力な顧客と人材を引き寄せる強力な道具になっている。
皮肉な立場に置かれたのがエヌビディアだ。同社はWorld Labsが表舞台に出た2024年の時点から出資し、2月の調達にも加わっていた。全額株式交換である以上、買収が完了すれば、エヌビディアも対価として、最大のライバルであるAMDの株を受け取る側に回る。エヌビディアはルカンのAMI Labsにも出資し、Cosmosの連合で多くの新興企業を味方につけるなど、世界モデルに広く薄く賭けてきた。AMDは、そのうちの一社を一点買いで持っていった形だ。
ImageNetとエヌビディアのGPUが出会った2012年から14年。ImageNetの生みの親は、追う側のAMDに加わる。


各紙とアナリストはどう報じたか

発表は9月28日、米国市場の取引が終わった直後の午後4時過ぎだった。AMD株はこの日の取引時間中に3.6%下げており、「買収発表で株価が下落」と伝えた記事も国内外で見られたが、下げたのは発表前だ。翌29日の取引は小幅高で始まった。時価総額が1兆ドル前後の会社にとって、82億ドルは1%に満たない。市場の反応は総じて落ち着いていた。
報道の切り口は、各社の関心を映した。ブルームバーグはスーとリーをそろって取材し、World Labsのチームが新しいAIモデル部門の中核になると伝えた。ロイターは見出しで「フィジカルAIへの82億ドルの賭け」とうたい、ザイリンクスに次ぐ過去2番目の買収で、エヌビディアに対抗するための一手だと位置づけた。テッククランチは、エヌビディアがすでにCosmosを公開していることを挙げ、汎用ロボットの訓練に使う合成データの重要性を強調した。CNBCは、エヌビディアによるハギング・フェイス買収などと並ぶ、巨大テックのAI人材獲得の流れの中に今回の買収を置いた。フォーチュンは、リーの「宇宙は言葉でできているのではない」という一節を引いた。香港のサウスチャイナ・モーニング・ポストは、同じ月のエヌビディアによるハギング・フェイス買収と並べ、両社の対立が激しさを増していると報じた。日本経済新聞の見出しは「AMD、『AIゴッドマザー』の米新興1.3兆円買収 フィジカルAI開発」。Forbes JAPANは、リーの参加が、エヌビディア製の半導体に頼る多くのAI研究者を引き寄せる材料になりうると指摘した。
ウォール街の評価は、おおむね好意的だ。シティグループのアティフ・マリクは「買い」を維持し、AIモデルの進化を「より深く見通せる」ようになると評価した。ウェルズ・ファーゴのジョー・クアトロッキは、AMDのオープンなAIの生態系をさらに広げると指摘した。ローゼンブラットは、AMDが本来なら社内で積み上げる必要があった技術投資を、一気に前倒しするものだと見る。スティーフェルも、空間知能と世界モデルの能力が加わるとして「買い」を据え置いた。フューチュラム・グループのダニエル・ニューマンは、AMDが「財務の体力を使って大胆に動いている」と表現した。
慎重な声もある。RBCキャピタル・マーケッツのスリニ・パジュリは、ロボットやシミュレーション向けに一式の解決策を提供する布石になると認めつつ、エヌビディアが仮想空間の基盤「Omniverse(オムニバース)」で築いた先行は「大きい」とくぎを刺し、評価は中立にとどめた。米テック・タイムズは、この買収でも、AI開発者の多くが慣れ親しむエヌビディアのソフトウェア基盤CUDAに対し、AMDの基盤が見劣りする問題は解消しないと指摘した。AIニュースレターのインプリケーターは、Atlasの性能比較はWorld Labs自身によるもので、第三者の検証はまだないと書いている。

これから何が起きるか:年内の完了から2027年へ

最初の関門は、買収の完了だ。AMDは当局の承認などを条件に、年内の完了を見込む。完了と同時に、リーはAMDの執行副社長兼チーフ・サイエンティストに就き、World Labsのチームは共同創業者のジョンソンとミルデンホールが引き続き率いる。
次の節目は、例年10月末から11月初めに発表される7〜9月期決算だ。AMDは売上高を約130億ドル(約2兆円)と見込んでいる。買収発表後、初めての決算説明会で、スーCEOが新しいAIモデル部門の姿や、人材獲得の計画をどこまで語るかが焦点になる。
2027年にかけては、Heliosの出荷が本格化する。World Labsの次のモデルは、学習の多くをAMDの設備で行う方針だ。AMDのチップで鍛えられた世界モデルが、どこまでの性能を出せるか。それは、AMDの半導体がエヌビディアに代わる選択肢になりうるかを示す、生きた実例になる。
製品の行方も見逃せない。Atlasはいまのところ一部の提携先への先行提供にとどまり、World Labsは今後のMarbleをAtlasで動かす計画を示している。一方、MarbleやAPIを使う開発者や、オートデスクのような提携先との関係がどうなるのか、両社は詳しく明らかにしていない。
競争相手も止まらない。グーグルはGenieの改良を続け、エヌビディアはハギング・フェイスの買収手続きを進めながら、Cosmosの陣営を広げる。ルカンのAMI Labsは、商用化までに何年もかかると公言しつつ研究を急ぐ。オデッセイのような新興企業にとっては、今回の82億ドルが、自らの値付けの物差しとして意識されることになる。
リーは、AMDへの合流を告げる文章の冒頭に、英国の詩人テニスンの一節を掲げた。「さあ、友よ。より新しい世界を求めるのに、遅すぎることはない」。5億4,000万年前、光を感じ取れる最初の生き物が現れ、生命の爆発的な多様化が始まった。リーは2024年のTEDの講演を、この話から始めている。ImageNetでAIに「見る」ことを教えた研究者は、今度は半導体の会社とともに、AIに世界を理解させ、その中で動かすことに挑む。
