Lyria 3.5 発表の全体像

Googleは2026年7月29日(現地時間)、Google Labsの公式ブログで音楽生成モデル「Lyria 3.5」を発表し、同日から音楽制作サービス「Google Flow Music」での提供を開始した。公式ブログが挙げた改善点は4つで、楽曲性については「より豊かで複雑なメロディー構造を、より自然な響きで生成できる」、歌詞については「プロンプトへの忠実性と構成の把握が改善され、より高品質な歌詞を生成できる」、ボーカルについては「より現実的で感情のニュアンスに富んだボーカルと、改善された発音によって、楽曲により多くの表現と感情をもたらす」、そしてクリエイティブコントロールについては「出力のテンポと長さをより簡単に制御できる」とされている。Google DeepMindのモデルページは、Lyria 3.5を同社の最も高度な音楽生成モデルと位置づけ、最大3分の楽曲を生成でき、50人を超えるDeepMindの研究者に加えてYouTubeのアーティスト・パートナーシップ・チームやAlphabet各部門が開発に関与したと記している。
注目すべきはリリース間隔の異様な短さである。GoogleはLyria 3を2026年2月18日にGeminiアプリへ投入し(当初は30秒のクリップ生成、18歳以上限定、米国のデスクトップから順次展開)、3月25日にはイントロ・Aメロ・サビ・ブリッジといった構成を理解して最大3分の楽曲を生成する「Lyria 3 Pro」を公開、4月8日にはVertex AIでの公開プレビューを開始した。そして7月29日のLyria 3.5である。米Tech Timesはこれを「5か月で3度目の主要な音楽モデル投入」と表現した。生成AIの主戦場が言語からマルチモーダルへ移り、動画(Veo)と画像(Nano Banana)で先行したGoogleが、残された最後の主要モダリティである音楽に本気で資源を振り向けたことがはっきり見える。
Lyria 3.5の初期展開はGoogle Flow Music限定で、Lyria 3および3 Proが提供されているGemini API・Vertex AI・Google AI Studio・Google Vids・YouTube ShortsのDream Trackへの拡大は、発表時点では告知されていない。前2世代がいずれも消費者向け製品を起点に数週間で開発者向けへ広がった経緯を踏まえると、この点は次の観測ポイントになる。


Google Flow Music とは何か — Riffusionから続く系譜

Lyria 3.5を理解するには、その器であるGoogle Flow Musicの成り立ちを押さえる必要がある。これはGoogleが自前で作ったサービスではなく、買収したスタートアップの製品である。
出発点は2022年12月、Seth ForsgrenとHayk Martirosがオープンソースの趣味プロジェクトとして公開した「Riffusion」だ。画像生成モデルStable Diffusionの仕組みを転用し、音楽をスペクトログラム(音を画像として表した図)として生成するという発想がバイラルに広がった。Riffusionは2023年10月にGreycroft主導で400万ドル(約6億6,000万円)のシード資金を調達し、South Park CommonsとSky9が参加、人気デュオThe Chainsmokersがアドバイザーに就いた。2025年7月には製品名を「ProducerAI」に改称し、自社モデル「FUZZ」系列を投入している。第三者ベンチマークのArtificial Analysis Music Arenaでは、2025年7月のリーダーボード公開時点でFUZZ-1.1 ProがSuno v4.5に次ぐ2位につけており、単なる小規模スタートアップではなかった。
Googleは2026年2月24日、Google Labsのシニア・ディレクター(プロダクトマネジメント)Elias Romanのブログ投稿でProducerAIの買収を発表した。買収額は非開示で、チーム全体がGoogle LabsとGoogle DeepMindに合流した。Romanは同社の製品を「創造上の協働者」と表現し、「プロンプトを入れてスロットマシンを回せば何かが出てくる、という類のツールではない」と述べている。The ChainsmokersのAlex Pallは、ProducerAIが「ミュージシャンの体験を軸に本当に作り込まれていて、極めて技術的でありながらネイティブに音楽家的だ」と評した。Forsgren自身はGoogle Flow Musicのグループ・プロダクト・マネージャーとして残っている。買収後の製品はLyria 3を生成エンジンに、Geminiを対話インターフェースに、Nano Bananaをジャケット生成に、Veoをミュージックビデオ生成に据える構成へ組み替えられ、2026年4月に「Google Flow Music」へ改称された。
使い勝手の面では、チャット相手の「Producer」に日本語や英語で指示を出しながら曲を組み上げていく形式を採る。窓の外の雨を撮った写真を放り込んで雰囲気に合う曲を作らせる、「BPM 112、Aマイナー、90年代の渋谷系ギターポップ、女性ボーカルの日本語詞」のように拍数・調・ジャンル・言語・楽器を文章で指定する、生成した曲をボーカル・ドラム・ベースなどのステム(楽器別トラック)に分解して書き出す、といった操作が一つの画面で完結する。Googleのヘルプページによれば、中核機能は無料で利用でき、有料プランはStarter・Plus・Memberの3段階で、Google AIのサブスクリプション(AI Plus/AI Pro/AI Ultra)の加入者はそれぞれStarter/Plus/Memberの特典を得られる。iOS版アプリも提供されている。

楽曲性の向上は、どこまで実測されているのか

「豊かな楽曲性」というGoogleの表現は定性的だが、モデルカードには技術的な裏付けが記されている。Lyria 3は時間軸方向の音声潜在表現に対して潜在拡散(latent diffusion)を適用する方式で、GoogleのTPU上でJAXとML Pathwaysを用いて学習された。入力はテキスト、出力は音声と歌詞テキスト、音質は44.1kHzのステレオである。学習データは詳細度の異なるテキストキャプションを付与した音声データセットで、重複除去・安全性フィルタ・品質フィルタを施したとされる。安全対策としてはデータセットのフィルタリング、条件付き事前学習、教師ありファインチューニング、そして人間および批評モデルからのフィードバックによる強化学習(RLHF/RLCF)が挙げられている。モデルカード自身の評価では、Lyria 3はLyria 2および他社モデルと音楽品質・ボーカル品質・音響忠実度・プロンプト追従の4軸で比較され、音響忠実度と歌詞のプロンプト追従で「大きな」改善を示したと記述されている。
外部の目線を入れると、話は少し辛くなる。ブラインド比較の投票からEloレーティングを算出するArtificial Analysis Music Arenaのインストゥルメンタル部門では、首位がSuno V5.5(Elo 1,190)、2位が中国・崑崙万維(Kunlun Tech)のMureka V8(1,167)、3位がSuno V5(1,159)で、Lyria 3 Proは4位の1,119である。ボーカル部門ではSuno V5.5(1,170)、Mureka V8(1,139)、Suno V5(1,096)、MiniMax Music 2.5+(1,094)、Music 2.6(1,092)、Suno V4.5(1,088)に続く7位で1,083にとどまる。同じ盤上でLyria 2は1,000であり、Lyria 3世代で100ポイント以上を積み上げた事実は確認できる一方、首位との差はボーカルで約90ポイント残っている。Lyria 3.5はまだこのリーダーボードに登録されていない。つまり「楽曲性の向上」が業界最高水準への到達を意味するかどうかは、これから外部投票で決まる。ここが今後数週間で最も分かりやすく数値化される論点である。

歌詞とボーカルの強化 — 日本語で試すと何が起きるか

Lyria 3はGeminiアプリ投入時点で英語・ドイツ語・スペイン語・フランス語・ヒンディー語・日本語・韓国語・ポルトガル語の8言語に対応し、以後の拡大が示唆されていた。歌詞側の制御はGemini APIのドキュメントに具体的に記されており、[Verse][Chorus][Bridge]といったセクションタグやタイムスタンプで構成を指定でき、プロンプトの言語に合わせて歌詞が生成される。Lyria 3.5はここに「プロンプト忠実性」と「構成の把握」の改善を重ねた形になる。
日本語での実力について、GIGAZINEは発表当日に女性アイドルグループ風の楽曲を複数生成した検証記事を公開している。複数ボーカルとソロパートを含む構成が「しっかりと女性アイドルグループの楽曲っぽく」仕上がった一方、よく聴くと発音の怪しい箇所が残ると指摘している。食べ物の写真をアップロードして雰囲気に合う曲を作らせる画像起点の生成も機能した。運用面では、サービスはサブスクリプションではなくクレジット制で、無料登録時に500クレジットが付与され、有料プランは年額換算で月6ドル(約980円)から48ドル(約7,900円)まで、動画生成は音声のみより大幅にクレジットを消費する、ミュージックビデオのダウンロードは繰り返し失敗したがMP3・M4A・WAVの音声書き出しは問題なく動いた、と報告されている。
Googleがあえて踏み込まない領域も明確だ。Gemini APIのドキュメントは、特定アーティストの声や著作権のある歌詞の生成要求は安全フィルタでブロックされると明記している。Lyria 3 Pro発表時にGoogleは「原初の表現を守るため、Lyria 3は特定のアーティストをまねない。プロンプトで作り手の名前が挙がった場合、モデルはそれを広い意味での着想源として扱う」と述べた。対照的に、Sunoは2026年3月26日公開のv5.5で「Voices」を導入し、Pro/Premier加入者が自分の歌声を録音・アップロードして生成に使えるようにしている。声の同一性という最も紛争リスクの高い機能をスタートアップが取りに行き、Googleが避ける——この非対称は両社の立場の違いをそのまま反映している。

クリエイティブコントロール — 「作り直し」から「描き直し」へ

生成音楽ツールの実用性を左右するのは、出てきた曲のどこが気に入らなかったときに何ができるかである。従来型の生成は気に入らなければガチャを回し直すしかなく、これがプロの制作フローに乗らない最大の理由だった。
Lyria 3.5世代のFlow Musicは、この点を「Selective Section Painting」で崩そうとしている。The Decoderの報道によれば、これは楽曲の特定セクションだけを選んで編集し直したり、短いメロディの断片をフル尺の曲へ育てたりできる機能で、最初から作り直す必要がない。生成尺は30秒から3分の範囲で、ボーカル・ドラム・ベースなどの要素ごとにテンポや長さを詰められる。
ここで報道が混線しやすいので整理しておくと、セクション単位の編集や「Covers」(元のメロディと構成を保ったまま曲全体のスタイルを別物に変換する機能)、Gemini Omni Flashを使った対話型ミュージックビデオ制作、そしてiOS版アプリは、いずれも2026年5月19日付のGoogle Labs公式ブログで発表されていたものだ(MusicTechによれば専用モバイルアプリはGoogle I/O 2026で告知された)。同ブログには歌詞の書き換えと翻訳を他の部分に影響させずに行える機能も含まれる。7月24日には、自然言語で独自の楽器や音楽アプリを組み上げる「Spaces」(いわゆるバイブコーディング環境)に、楽曲生成と編集、カバー制作、ステム分割、画像・歌詞・動画生成が加わった。7月29日のLyria 3.5は、こうして先に整備されたUI群の下にあるモデルを差し替えた発表と読むのが正確である。
競合も同じ方向へ動いている。Sunoは2025年9月にマルチトラック編集とステム分離を備えた「Suno Studio」を出し、Udioは2025年6月に視覚的なトラック編集環境「Sessions」を公開した。Udio共同創業者のAndrew Sanchezは「既存のワークフローにシームレスに統合されるようSessionsを作った」と述べている。Music Business Worldwideは、こうした音楽AIワークスペースがAbleton、Logic Pro、Pro Toolsといった従来型DAWの脅威になり得るかという問いを立てている。生成AI音楽の競争軸は、単発の音質勝負から編集環境の設計競争へ移りつつある。

無料枠・API・そしてストック音楽市場という本当の標的

消費者向けの話題性の陰で、Googleがより静かに、より確実に取りに行っている市場がある。ロイヤリティフリーのストック音楽(プロダクション音楽)だ。
Gemini APIでは30秒固定・MP3出力のlyria-3-clip-previewと、フル尺・MP3/WAV出力のlyria-3-pro-previewが提供され、いずれも44.1kHzステレオ、最大10枚の画像を入力に使えるマルチモーダル対応である。反復的なマルチターン編集はできず、同じ呼び出しでも結果は毎回変わる、という制約も明記されている。開発者向け解説サイトでは1曲あたり0.08ドル(約13円)という単価が紹介されているが、Google公式のブログやドキュメントはこの価格を公表していない。2026年4月8日のGoogle Cloudブログは、Vertex AIでのLyria 3およびLyria 3 Proの公開プレビュー開始を告知し、全出力にSynthIDの電子透かしとC2PA(コンテンツ来歴の標準規格)への対応を組み込んだうえで、導入事例としてストック素材サービスのArtlistとFreepikを挙げている。Artlistは人手による音楽学的な検証を組み合わせて品質を担保していると説明されている。
Lyria 3 Pro発表時、Music Business Worldwideは記事見出しで「Epidemic Soundは気をつけろ」と書いた。Googleが自ら「ブログやポッドキャスト、チュートリアル動画向けのパーソナライズされた楽曲」という用途を提示したためだ。スウェーデンのEpidemic Soundは動画クリエイター向けロイヤリティフリー音楽の代表格で、EQT、Blackstone、Creandumなどから累計4億7,600万ドル(約780億円)を調達し、企業価値は14億ドル(約2,300億円)とされる。同社は2026年、2014年から2024年までの年平均成長率55%を理由にFinancial Timesの「欧州の長期成長チャンピオン2026」に選出され、同社楽曲を含む動画の1日あたり再生数は15億回から30億回超へ倍増したと発表している。月額数十ドルのサブスクリプションで曲を借りる市場に、1曲あたり数セント規模のAPIが入り込む構図であり、消費者向けのバズよりもこちらの侵食のほうが収益インパクトは直接的だ。

強み — 音楽性ではなく、流通と来歴管理

Googleの本当の強みは、Eloスコアには表れない。第一に流通である。Lyria系モデルはGeminiアプリ、YouTube ShortsのDream Track、Google Vids(Workspace向けの動画作成ツール)、Google AI Studio、Vertex AI、Gemini Enterpriseと、消費者から開発者、法人までを貫く経路に同時に載る。Dream Trackは当初、Alec Benjamin、Charlie Puth、Charli XCX、Demi Lovato、John Legend、Sia、T-Pain、Troye Sivan、Papooseといったアーティストの声とスタイルを限定的なクリエイターに開放する実験として始まり、現在は米国など複数国のクリエイターがLyria 3経由でShorts用のサウンドトラックを作れる。スタートアップがどれほど良いモデルを作っても、この配管だけは複製できない。
第二に来歴管理である。全出力にSynthIDの可聴不能な電子透かしが埋め込まれ、Vertex AI経由ではC2PAにも対応する。ユーザーは音声ファイルをアップロードしてAI生成かどうかを検証できる。ストリーミングプラットフォーム、著作権管理団体、規制当局が自動検出とポリシー執行に使える検証可能な来歴の鎖を、Lyria生成物は最初から備えている。これは後述するEU AI Actの表示義務が発効する局面で、そのまま競争優位に転化する。
第三に音楽業界との接続である。Googleは2026年5月6日、年商10億ドル(約1,640億円)超・50か国以上で事業を展開するアーティスト支援企業Believeおよびその自主流通プラットフォームTuneCoreと提携し、所属アーティスト・プロデューサー・ソングライターにFlow Musicを提供すると発表した。BelieveとTuneCoreが選んだアンバサダーがGoogleの製品チームと週次で会い、開発に反映させる仕組みも含む。Googleは「Flow Musicで生成されたオリジナルコンテンツの所有権をGoogleは主張しない」と明記した。Forsgrenは「アーティストが次のアルバムの新しい方向性を探る初期段階にいても、歌詞に最後の仕上げをしている段階でも、Flow Musicは役に立つ」と述べている。研究面では、Apache 2.0ライセンスのオープンウェイトモデル「Magenta RealTime」(8億パラメータ、約19万時間のストック音楽で学習、48kHzで2秒ずつ生成しながら10秒の文脈を参照)も公開しており、開発者コミュニティ側の善意も確保している。

課題 — 「ライセンス済み」という言葉の空白

一部の海外メディアはLyriaを「ライセンス済みデータで学習したモデル」と紹介している。だがGoogle自身の表現は違う。Lyria 3 Proについて同社が繰り返してきた文言は「YouTubeとGoogleが、当社の利用規約、パートナー契約、および適用法の下で使用する権利を有する素材を用いて構築した」というものだ。これは「権利者から個別にライセンスを取得した」とは意味が異なる。そしてこの差こそが、いま法廷で争われている論点である。
2026年3月6日、Sam Kogon、Magnus Fiennes、Michael Mell、シカゴのバンドDirectrixのメンバーらインディー系ミュージシャン9名が、イリノイ州北部地区連邦地方裁判所にGoogleを提訴した。118ページの訴状は、Lyria 3の学習に無許諾・無報酬で著作権のある録音物が使われたと主張し、約5,000万本のYouTube動画から約4,400万の音声クリップが抽出され、学習データセット全体で28万〜37万時間の録音音楽が使われたと述べている。訴状はGoogleの構造的優位を突いており、「Googleは原告の音楽にアクセスできただけではない。その音楽が世に届く経路そのものを運営していた」として、YouTubeとContent IDを支配し5,000万件超の参照ファイルとメタデータを保有している点を挙げた。Complete Music Updateが伝えた訴状の表現は「Googleにはこの製品を合法に開発する機会がいくらでもあった」「ライセンスなしのコピーのほうが速く、安かった」である。Googleは6月8日に訴え却下の申立てを行い、YouTubeの利用規約がGoogleおよびその関連会社に「全世界・非独占・無償・サブライセンス可能・譲渡可能なライセンス」を与えており二次的著作物の作成も含まれる、原告にDMCA上の当事者適格がない、侵害的な出力が特定されていない、と主張した。申立書は「原告はGoogleの画期的なYouTubeプラットフォームを自らの音楽の宣伝と収益化に活用することを選んだミュージシャンである」と述べている。
この論法は業界に強い警戒を生んだ。無許諾AI学習に反対する立場を取るEd Newton-Rexは、YouTubeがインディー・クリエイターと大物の「土俵を平らにする」と長年宣伝してきた末に「小さい側を罰している」と批判し、規約への同意は「インフォームド・コンセントではない」との指摘が業界から出ている。メジャーレーベルや出版社はYouTubeと個別のライセンス契約を結んでおり、規約一枚で処理されるのは自力で交渉できない独立系だけという非対称も浮き彫りになった。
もうひとつの空白はメジャーレーベルとの正式契約である。Financial Timesが2025年10月に報じた「数週間内に成立し得る」ライセンス交渉の対象企業リストにはGoogleとSpotifyも含まれていたが、その後Googleが三大メジャーのいずれかと契約を締結したという公式発表はない。この間にUdioはUniversal Music Group(2025年10月和解)とWarner Music Groupと契約し、Klay Vision社は2025年11月にUniversal、Sony、Warnerの三大レーベルおよびそれぞれの出版社と同時にライセンス契約を締結した史上初のAI音楽プラットフォームとなった。「訴訟を抱えていないこと」がGoogleの強みとして語られてきたが、実際には訴訟を抱え、かつライセンスも持たない、という位置にいる。


競合地図 — 資金、指標、そして流出したソースコード

最大の競合Sunoの数字は圧倒的だ。2026年6月3日、Mary Meeker率いるBond Capital主導で4億ドル(約656億円)超のシリーズDを発表し、ポストマネー評価額は54億ドル(約8,860億円)に達した。IVP、Forerunner、Union Square Ventures、Alkeon、Quietが参加し、既存投資家のMatrix、Lightspeed、Menlo Ventures、Schroders Capitalも追加出資した。2025年11月のシリーズC(Menlo Ventures主導、2億5,000万ドル=約410億円、評価額24億5,000万ドル=約4,020億円、NVIDIAのNVenturesやHallwood Mediaも参加)から約半年で評価額は2倍を超えた。Fortuneが7月17日に伝えた指標は累計ユーザー1億人超、有料課金者200万人、ARR約3億ドル(約492億円)、1日あたり生成楽曲700万曲である。ForbesはAxiosとBillboardの報道を引いて、2025年通年の売上が1億5,000万ドル(約246億円)、2026年2月単月で2,500万ドル(約41億円)だったと報じた。Menloの投稿によれば全ユーザー平均のセッション時間は55分に達し、TikTokやYouTubeに匹敵しSpotifyやXを大きく上回る。App Storeでは全体11位、音楽カテゴリ1位を記録した。
そのSunoに、7月中旬に痛烈な一撃が入った。404 MediaとTechCrunchが7月15日に報じたところによれば、2025年11月にnpmのワーム「Shai-Hulud」を使ったサプライチェーン攻撃で従業員の資格情報が侵害され、流出したソースコードがハッカーによって公開された。コード内のコメントには「youtube_music 113,879時間」「ytm_tagged 152,162時間」「pond5_music 62,117時間」といった記述や、YouTube Musicだけで201万3,545本の音楽クリップを取り込んだ痕跡が含まれ、Deezer、Genius、Pond5、Jamendo、Freesound、International Music Score Library Project、RSS経由のポッドキャストからの収集が示されていた。スクレイピングはBright Dataの商用プロキシ網を経由していたとされる。Sunoは「限定的なセキュリティ事案であり速やかに封じ込めた」と説明したが、報道が出るまで顧客に通知しなかったと報じられている。RIAAは以前からSunoが「YouTubeから直接曲を抜き出している」と主張しており、DMCAの技術的保護手段回避の主張を補強する材料になる。
Sunoは2025年11月25日にWarner Music Groupと和解し、ライセンス済みの新モデルを2026年中に投入すること、投入時に現行モデルを廃止すること、ダウンロードを有料アカウント限定にし月間上限を設けること、無料プランの楽曲は再生と共有のみ可とすることを合意した。だが2026年3月23日にMBWのTim Inghamが「V6はどこだ」と題した記事で和解から114日が経過してなお新モデルが出ていないと指摘し、4月7日のFinancial Times報道では「現行の提案では前に進む道がない」という交渉関係者の声とともにUniversalおよびSonyとの協議が停滞していると伝えられた。Sunoは6月のシリーズD発表時に「音楽業界と共同開発した最初のモデルを今後数か月のうちに順次提供開始する」と述べたが、具体的な日付は示していない。
その他の競合を俯瞰すると、Udioはa16z主導で累計約7,000万ドル(約115億円)を調達し、UMGとの和解を踏まえて2026年中にライセンス済みプラットフォームを立ち上げる。UMGアーティストの許諾を前提に楽曲のリミックスやカスタム生成を可能にするサブスクリプション型で、アプリ内に閉じた「壁に囲まれた庭」型の設計が特徴だ。ElevenLabsは2025年8月5日に独立系レーベル団体Merlinと出版大手Kobaltとの契約を伴う「Eleven Music」を投入し、権利者はオプトインでロイヤリティを受け取る50対50の分配を得る。同社は2月の5億ドル(約820億円)のシリーズCで評価額110億ドル(約1兆8,040億円)とされ、PYMNTSによればEleven Musicを消費者向けのストリーミング・生成・リミックス基盤として再投入し、無料枠は1日7曲、月額9.99ドル(約1,640円)のProで月500曲まで拡大するという。Stability AIは全面的にライセンス済みデータ(AudioSparxの80万6,284点とFreesoundのCC音源)で学習した企業向けモデルを掲げ、UMGおよびWMGとプロ向け制作ツールの共同開発で提携、TechCrunchによれば2026年5月には最大6分の楽曲を生成できる新モデルを公開した。中国勢では崑崙万維のMureka V8がArtificial Analysisの両部門で2位につけ、MiniMaxのMusic 2.6/2.5+も上位に食い込み、Tencent AI Labは「SongGeneration」をオープンソース化、ByteDanceのDoubaoチームはSeed-Musicを公開している。OpenAIについては2025年10月に音楽生成ツールの学習を始めたという報道があり、2026年初頭には第1四半期の音声モデル投入計画が報じられたが、FTのライセンス交渉先リストには名前が挙がっていない。



シリコンバレーのVCはどう見ているか

Sunoの2ラウンドを主導・追加出資したMenlo VenturesのパートナーAmy Wu Martinの言葉は、この分野への投資家の見方を最も鮮明に示している。彼女が置く概念は「creative entertainment(創作そのものが娯楽)」で、完成品への手段ではなく作る行為自体が目的になるという整理だ。Fortuneのインタビューで彼女は「AIツールによって創作の労力とコストが劇的に下がったため、その創作に対する見返りの性質が根本的に変わった」と述べ、商業意図のない「一人で作って一人で楽しむ創作と消費」という表現を使った。Menloの投稿は、コンテンツ消費者の1%が作り9%が反応し90%が眺めるだけという「1:9:90の法則」が崩れ、時間・技能・自信という障壁が下がれば大半の人は受動的消費以上のことを望むという主張を展開している。訴訟リスクを問われた際の彼女の答えは「進行中の話し合いがたくさんある」だけだった。シリーズDをリードしたのはBond Capital——インターネットの女王と呼ばれたMary Meekerのファンドであり、グロース段階の資金が消費者向けAI音楽をアセットクラスとして認めたことを意味する。
この視点をGoogleに当てはめると、評価が反転する部分がある。VCが見ているのは音質ではなく行動変容の深さ、すなわちセッション時間と課金転換である。Sunoの55分は「目的地」としてのプロダクトの数字だ。対してFlow Musicは、Google AIのサブスクリプションに紐づく特典の一つとして提供される「バンドルの一機能」である。Googleは配布の圧倒的優位を持つが、Sunoが持つ帰属先としてのブランドと滞在時間を持たない。逆にSunoは、モデル廃止を約束させられた和解、停滞したライセンス交渉、ソースコード流出という三重の重荷を抱える。VCの期待値はこの綱引きの上に乗っている。
市場規模の数字は、この分野の資金集中を裏づける。カテゴリ横断の集計では、AI音楽ツールはAIクリエイティブツールの中で調達額2位のカテゴリでありながら、2025年8月から2026年7月までのわずか3件の取引で6億5,560万ドル(約1,075億円)を集めた。Tracxnの集計では2026年4月時点でAI音楽生成分野に69社が存在し、資金調達済みの14社が累計4億6,400万ドル(約761億円)を調達している。少数の勝者に資本が偏る典型的な形だ。実需側では、MIDiA ResearchのMark Mulliganが国際音楽サミット向けにまとめた分析が、生成AIとステム分離ツールの売上が2023年から2025年で651%増加し、2025年に3億3,300万ドル(約546億円)、月間アクティブユーザー6,300万人に達したと報告している。Goldman Sachsの「Music in the Air」は、AI音楽の直接収益が2024年の約4億ドル(約656億円)から年率30%で伸び、2030年に約21億ドル(約3,444億円)になると予測する。
ここに冷や水を浴びせるのがIFPIの数字である。IFPIのGlobal Music Report 2026によれば、2025年の世界録音音楽市場は前年比6.4%増の317億ドル(約5兆2,000億円)で11年連続成長、有料サブスクリプション利用者は8億3,700万人に達した。AI音楽の直接収益は、2030年の予測値でもこの市場の数%規模にとどまる。しかも配信面ではDeezerが2026年7月21日、1日の新規アップロードのうち完全AI生成の楽曲が初めて5割を超え、6月には1日平均9万曲に達したと発表した(4月時点では44%・約7万5,000曲、2025年1月は1日約1万曲)。一方でAI楽曲の再生は全体の1〜3%に過ぎず、そのうち85%は不正再生として検出・非収益化されている。つまり金は「AI楽曲のストリーミング印税」ではなく「作る人が払うツール課金」から生まれる。だからこそ投資家はSunoの有料課金者200万人とARR 3億ドルを評価し、GoogleはEpidemic Soundのサブスクリプション市場とVertex AIの法人課金を狙う。
新しいプレーヤーの立ち位置も出てきた。SunoのシリーズCに出資したHallwood Mediaは、元Geffen Records社長Neil Jacobsonが率いる音楽会社であり、Suno上で最も再生されたクリエイターimoliverと契約(楽曲「Stone」はSunoで300万再生超)、さらにSunoでボーカルを生成する詩人Telisha Jonesの別名義プロジェクトXania Monetを300万ドル(約4億9,000万円)規模の入札競争を経て獲得した。Xania Monetは2025年11月11日付のBillboard Adult R&B Airplayチャートで30位に入り、AIアーティストとして初めてラジオ・エアプレイ・チャートに登場した。レーベルが投資家とA&Rの両方の顔でAI音楽に入ってくる構図であり、Googleが握っていない領域である。


今後、いつ、どのような動きが計測されるのか

直近で最も影響が大きいのはEUの制度である。EU AI Act第50条の透明性義務は2026年8月2日から適用され、合成音声・画像・動画・テキストは人工的に生成されたものとして機械可読な形で標識付けする必要が生じる。欧州委員会は7月20日に第50条のガイドラインを採択し、AI生成コンテンツの標識付けに関する行動規範に従うことで適合を示せる(従わない場合は同等の代替手段で適合を立証する)という運用を示した。違反には1,500万ユーロ(約29億円)または全世界年間売上の3%までの制裁金が科され、EU域外の事業者もEU利用者に提供する限り対象になる。2026年8月2日より前に生成・公開されたコンテンツへの遡及的な標識付けは求められない。全出力にSynthIDとC2PAを埋め込んできたGoogleの設計は、この日を境にコンプライアンス基盤として意味を持つ。
司法の日程も密集している。ドイツの著作権管理団体GEMAが2025年1月に提起したSuno訴訟では、ミュンヘン地方裁判所第42民事部(Schwager裁判長)が7月31日午前9時、司法宮殿270号法廷での判決期日を設定した(当初6月12日から「内部の事務的理由」で延期)。3月9日の口頭弁論では、Alphavilleの「Forever Young」「Big in Japan」、Kristina Bachの「Atemlos」、Lou Begaの「Mambo No. 5」、Boney Mの「Rasputin」「Daddy Cool」の原曲とSunoの生成物が法廷で再生された。ドイツ法では一審判決は控訴中でも執行可能であり、欧州における学習データ問題への実質的な司法判断としては最初期のものになる。米国では、UMGとSonyがSunoを訴えたマサチューセッツ州連邦地裁(Saylor判事)の審理日程が6月30日に再設定され、フェアユースを含む終局的申立ての期限は2027年4月9日となった。両当事者ともサマリー・ジャッジメントを申し立てる見込みで、米国におけるフェアユース判断は2027年へずれ込む。原告側は5月21日、対象録音物を当初の560曲から6万1,026曲へ拡大する申立てを行い、Suno側は7月にニューヨークの並行するUdio事件で類似の拡大が退けられた点を指摘する補充書面を提出した。故意侵害の法定損害賠償は1作品あたり最大15万ドル(約2,460万円)で、対象曲数の桁が変わると賠償額の上限も桁で変わる。Google自身の却下申立てに対する判断も、「YouTubeの利用規約はAI学習ライセンスを含むか」という論点に対する最初の司法判断として注目される。
製品面の観測ポイントは4つある。第一に、Lyria 3およびLyria 3 Proが消費者向け投入から数週間でGemini APIとVertex AIへ広がった前例からすると、Lyria 3.5の開発者向け提供とGeminiアプリ・YouTube Dream Trackへの拡大が次の一手になる。第二に、Artificial Analysis Music ArenaにLyria 3.5のEloが登録されれば、「楽曲性の向上」がSuno V5.5との約90ポイント差をどこまで詰めたのかが数値で確定する。第三に、Sunoが「今後数か月」と述べたWarner提携モデルの投入時期であり、これは同時に現行v5系の廃止とダウンロード課金化のトリガーになる。第四に、UdioがUMGと約束した2026年中のライセンス済みプラットフォームと、三大メジャーの許諾を得たKlay Visionのサービス開始である。
日本では権利処理の枠組みが2026年6月11日に大きく動いた。JASRACは生成AIと著作権に関する方針をまとめた特設ページを公開し、単純な指示でAIが歌詞も曲も生成したものは人間の創作的寄与が認められないため著作物に該当せず管理対象外とする一方、歌詞と曲の一方が人間の創作である場合はその人間の部分を管理する、という線引きを示した。日本経済新聞は「完全AI作品『管理しない』」、ITmedia NEWSは「『AI作曲・人間作詞』の曲は管理します」と報じている。JASRACは著作権法30条の4の見直しを含む立法論の議論を求め、伊澤一郎理事長はAI学習利用に権利者の意思を反映させる仕組みの必要性を訴えてきた。同協会が2026年1月から3月に実施した音楽クリエイター向けアンケートでは、自作のAI学習利用に「反対」「どちらかといえば反対」が54%、「賛成」「どちらかといえば賛成」が20%だった。Lyria 3.5が日本語ボーカルを最大3分生成できる以上、日本市場でも「誰の権利で学習されたか」と「生成物が誰の著作物か」が同時に問われる。米国側では、Recording Academyが人間の創作的寄与が実質的である場合にのみAI利用作品をグラミー賞の対象とし、AI生成部分の作者は受賞対象外とする方針を採り、ラテン・グラミーも2026年の授賞から同趣旨の規定を適用している。次の定点観測は、2027年3月に公表されるIFPIのGlobal Music Report 2027で、AI音楽が録音音楽市場の統計にどう現れるかである。

